03 何気のない日常

 

「本当に……このままでいいのかなぁ」


 誰に当てたわけでもなく、ただ小さく呟いた言葉。

 隣に座っている不機嫌そうなオジサンが何を勘違いしたのか、じろり、と睨んでくる。


 あ、違います。その、えっと。独り言なんです。


 ダラダラと冷や汗をかきながら乗っているバスの外の景色を眺めていると、次のバス停でオジサンがズカズカと降りていった。

 

 僕の名前は平野明人ひらのあきと


 明るい人になって、周りの人の先を明るくして、正しい方向に導いてあげてほしいという意味を込めて両親が付けてくれた。

 その両親も離婚してからずっと音信不通の状況。現在は成人済み、と言っても定職についている訳でもなく、高校二年生になった妹の佳奈の為に使うお金を稼ぐために毎日アルバイトに勤しんでる。

 どこにでもいる、社会の歯車の一つ。どう足掻いても注目の的になることもなく、主人公に成り得る素質などない。一般男性、俗にいう「パンピー」だ。


 と、窓の外の見慣れた景色を眺めながらまとめてみた。

 ただの自己紹介。でも必要なことだ。

 僕は今、将来のことを考えないといけない状況に面している。その為の一旦情報整理だ。

 

「これからかぁ」


 昨日の話、妹から一緒に大学進学を持ちかけられた。

 僕だってロボットじゃない。もちろん感情はあるし、欲もある。自分の置かれている環境にずっと居たい訳がない。


「……ほんと、どうしたらいいかな」


 あれこれ考える時にポロポロと口から零れる言葉たち。もちろん誰に当てた訳でもない。

 だが、いつの間にか隣に座っていた気の強そうなオバ様がこれまた勘違いをしたのか、じろり、と睨んできた。

 なんで怖そうな人しか隣に来ないんだよ。まぁ、いいけどさ。どうせ次のバス停で降りるし。


 ……とりあえずは、もう少し考えてみようか。


 僕は席を立ち、昼からシフトが入っているファミレスの最寄りのバス停で降りた。



      ◆◇◆



 一方その頃。

 兄が次のバイト先へと向かい出したタイミングで、妹の佳奈が明日が通常よりも早めの帰宅をしていた。


「ただいまー、って誰もいないけどね」


 佳奈の容姿を一言で現すならボーイッシュ、だろうか。

 髪の毛は黒く、ヘアカタログで兄が見ていた女性の髪型 (マニッシュショートというらしい!)にしている。

 友達に影響され化粧を始めたにははじめたが、先生にバレない程度。

 明人は母親似で佳奈は父親似。顔は兄妹だと言うのに似ていない。


「……それにしても、あの声はなんだったんだろう……ん〜……」


 と帰宅時に聞こえた謎の声の正体に考えをめぐらせながら履いていた靴を脱ぎ、バックをソファの横に置き自室に制服をかけにいった。


「いやっ、そんなことより明日からあるテストのことを考えないと……!」


 制服を片手に自分の部屋に目を向ける。

 散らかった衣類、参考書や教科書が散乱し、常に敷きっぱなしの敷布団。それらを見て顔をしかめた。


「うんむ……片付けなきゃって気になったら片付けよう」

 

 ハンガーを片手に現実から目を背けていると、制服の胸ポケットに入っている兄がくれた手帳が床に落ちた。


「あ」


 落ちた手帳を拾い上げようとすると、手帳が開き、自分の字でなぐり書きされたページが開かれていた。

 そのページはとても読めるような状態ではなく、ページ一面に言葉が書かれて余白がない状態になっている。


 ――頑張らないと、期待に応えるんだ。


 そんな文字が書き殴られている手帳。


「……………………わかってる、わかってるよ」


 表情が抜け落ちた佳奈は自分に言い聞かせる形で小さく呟く。

 手帳を拾い上げてその文字を見つめていると、昨日の兄とのやり取りを思い出した。


 ――兄さんも大学に入ればいいんじゃないかな!

 ――奨学金を借りてさ! 二人で同じ大学に入って同じサークルに入って、学食を一緒に食べてさ! 絶対楽しいよ!


「……分かってた、のに」


 昨日の自身の行動を省みて、唇を噛み、握った拳に力が籠った。

 兄が誰のために、なんのために、自分がしたいことより家計を優先して毎日アルバイトをしてくれているのかと再度頭に理解をさせる。


 それと同時に兄に詰め寄った時のことを思い出して耳が紅くなった。数か月ぶりの会話だったのにもかかわらず段階を飛びすぎたことを後悔したが、それよりも兄と久々に会話ができたことを喜んだ。


「……今の私は、ダメだ」


 感情が不安定な自身を元気にさせるように、頬を強めに叩いた。

 そうして脱いだカッターを片手にキッチンを通りかかろうとすると、固定電話の着信音が聞こえてきた。


「電話? 兄さん宛てだな!――もしもし? 平野です」


『あっ、出た出た! 妹さん? 中村です〜』


「あぁ! 中村さん。お久しぶりです、どうしました? 兄が何か……」


 中村さんは母さんの知り合い。そして両親がいなくなったことを知っている数少ない理解者。

 中村さんは兄妹の助けになればと思い、募集が少ない深夜帯のアルバイトをわざわざ作ってくれて兄を雇った。お酒関係の知識と酔いつぶれた人の対応を教えてくれている気さくなおじさんだ。


「あぁいやいや。娘が風邪ひいちゃってさー、お休みするって伝えてくれないかな? いつも通り張り紙は貼っておくけど、そろそろ携帯の一つでも持ってくれって言っておいてほしいかな〜」


「分かりました。娘さんお大事になさってください。伝えておきます。」


「ごめんなぁ、じゃあよろしくね」


 急いでいたのかガチャンと電話を切られた。だがそんなこと気にせず、ソファに腰かけてクマのぬいぐるみを両手で持ち上げ、笑みがこぼした。


「ふへっ、そっかぁぁっ……。」


 佳奈は連日で兄と話せる時間に喜びを感じながら、クマのぬいぐるみを左右にぶらぶら揺らした。

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