雛祭さんは逃げ出したい 2
「な、なんで……? 何かあったのか」
悲しそうな顔をする雛祭さんをまのあたりにして、おれもわかりやすく焦っていた。修学旅行の途中でリタイアなんて、誰しもがしたくないに決まっている。
それは、自称異世界の住人である雛祭さんも、同じらしかった。
「お父さんが……わたしを連れ戻しに来るみたいで」
「は? なにそれ……? どういうことだよ」
「すみません……わたしには……お父さんをただ、ここで待つことしか……できないです」
すべてを諦めたように、うなだれてしまった雛祭さんに、おれは苛立ちを感じてしまう。
なんだよ、それ。父親がなんで、子どもの旅行の邪魔をしにくるんだよ。聞いた感じ、冠婚葬祭みたいな家の深い事情ってわけでもなさそうだよな。
おい、どういうつもりなんだ、雛祭父。
再び、教頭と水木先生に呼ばれた雛祭さんのうしろ姿は、ひどく小さく見えた。
「雛祭さんのお父さんかあ。まさか、修学旅行に乗りこんでくるなんてね。マジでヤバいよ」
「りんね。何か知ってんの?」
後ろで、みくりと山際さんの会話が聞こえ、おれは思わず振り返る。気づいたみくりが、おれを手招きしてくれた。
「山際さん、雛祭さんの家のこと、くわしいのか」
「ああ。わたし、雛祭さんと同じ中学なんだよね。まじめな雛祭さんと、隠れオタクのわたしとじゃ、ほとんど絡みはなかったんだけど、それでも雛祭家のうわさはけっこう聞いたよ」
山際さんは、当時を思い出すように、あごに手をそえた。
「雛祭さんち、お父さんもお母さんも、おじいさんもおばあさんも、みーんな一流の大学出身なんだってさ。だから、雛祭さんも常に成績をチェックされてんだって。今回の『修学旅行強制送還事件』は、うちらの中学の体育祭のときの事例に似てるね」
「中学のときにも、『強制送還』があったってこと?」
みくりの予想に、山極さんが「せーかい」と、うなずく。
「雛祭父は出張が多いんだってさ。中学の体育祭の日は、ちょうど雛祭父が出張から帰ってきたときだったらしくてね。家で雛祭さんの成績を見て、父・怒り心頭。学校に飛んできてさ、今まさにリレーで走りだそうとしていた雛祭さんをひきずるようにして連れ戻してたよ」
「うわ……サイアク。ひどすぎん?」
みくりが、思いっきり引いている。おれも、自然と顔が引きつっていた。
雛祭さんの父親が、そんなに厳格な人間だったとは。いや、厳格という言葉よりもキツいものがある。雛祭さんは、もっと壮絶で、すさまじい扱いを受けている。
「これってもしかして……」
雛祭さんがカフェシエルで見せてくれた、『わたしの異世界転生記録』。
あれは雛祭さんが、雛祭父からの度を越した扱いから、『現実逃避』するために作りあげたものなんじゃないか。
まじめな雛祭さんが自分の心を救うため生み出した、自分のための世界。それが、あのノートだったんだ。
じゃあ、雛祭さんが記憶を失ったままなのは、まさか―――。
「父親から、逃げ続けるためか。だけど……」
せっかく記憶を失っても、こうやって追いかけられてしまっている。
このままじゃ雛祭さんは、記憶を失いつつも、同じように父親から束縛を受け続けるしかないじゃないか。
「……ちかな!」
首里城の門の前にタクシーが停まり、なかからすごい剣幕で、スーツを着た男性が降りてきた。とたん、雛祭さんの名前を呼んだので、すぐに雛祭父だとわかる。
ワックスでオールバックに整えられた髪、意思の強そうな瞳、雛祭さんに似た整った顔立ち。いかにも仕事ができますといわんばかりの、まじめそうな口もと。
雛祭父は広い歩幅で、あっというまに雛祭さんの前に立つと、有無をいわさぬスピードで、その手をつかんだ。
「帰るぞ」
成績にうるさそうな問答無用さが、口調のはしばしから現れている。
教頭先生はその態度に、すっかり尻ごみしてしまっているようだった。
雛祭さんが、父親に引きずられるようにして、連れて行かれてしまう。
止めたい。待てといいたい。なのに、足はおろか、喉から声が出ない。雛祭父のその目が、子どもはおとなに逆らうな、と物語っている。何もできないのか、無力な子どもは。あらがうことすら許されないのか。
おとなの思い通りにいかないからって、雛祭さんはここまでされなくちゃいけないのか。
「待ってください!」
水木先生だ。雛祭父を追いかけるように走りだし、叫んだ。
「何もこんな日に、わざわざお子さんをお迎えに来られなくても、いいんじゃないでしょうか……。せっかくの修学旅行なんですし……」
「家庭の事情ですよ。学校側が口に出すことではありません。失礼します」
なんて言葉が通じないやつなんだよ!
みくりも快人も、いや、クラス全員が、動揺し、うろたえている。
みんな、雛祭家の事情を初めて知ったようだ。
「雛祭さん、必死に隠してるみたいだったからね。中学であんなところを見せちゃって、みんなにとても心配かけちゃったからって。わたし、雛祭さんから高校のみんなにはいわないでほしいって、いわれてたんだ。当然、いいふらすようなこと、するつもりはなかったんだけどさ。こんなことが、またあったんじゃあね……」
山際さんが雛祭父に聞こえないように、気まずそうにささやいた。
「まじめな雛祭さんの性格は、あの父親譲りだったってことか。それにしても、強キャラすぎるけどな」
快人が、苦笑している。たしかに、雛祭父のあの頑固さはラスボス級だな。
水木先生が、必死に説得しようとしているが、雛祭父は聞く耳を持たないようだ。
「あの……だから、修学旅行のお金もお家の方から頂いていますし、返金はないので、もったいないじゃないですか」
「我が家はそんなに金に困っていません。金なんかよりも問題は、学力なんです。こんな成績では、目標の大学に進学できないんですよ。この娘がなかなかテストの成績をメールで送って来ないので、今朝方、母親に電話で聞き出しましてね。驚きましたよ。かなり点数が落ちている。そのくせ、のんきに修学旅行に行っているというじゃありませんか」
「いえ、これも勉強のいっかんで……」
「私は、座学の成績が落ちているといっているんですよ。論点をすりかえないでいただきたい。こんなムダな時間を過ごしているなら、一問でも多く、問題を解いたほうが、有益というものです」
「これも……勉強です。学校が生徒のために用意してきた、『みんなの修学旅行』なんです! ムダな時間だなんて、いわないでください」
「はあ。これだから、教師は『井の中の蛙』といわれるんですよ。もっと、広い目で物事を見たほうがいい。まったく……またムダな時間を過ごしてしまった」
せせら笑うようにして、雛祭父はタクシーのほうへと歩いて行く。
水木先生は、目に涙の膜をはりつめている。今にも、こぼれ落ちそうにしているのを、必死にがまんしているようだった。
雛祭さんは、何もいえないでいるようだ。ただただ、水木先生に向かって、申し訳なさそうにしている。
そうすることしか、できないのだろう。
「記憶をなくしたというから、どうしたかと思っていたが―――さらに、ばかになったものだ」
雛祭父のあきれたような言葉に、おれのなかの何かが、ブツンと切れた。
気づいたら、水木先生を背にし、やつに向かって叫んでいた。
「―――ばかって、誰のことだ」
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