2章 踏み出す一歩を ①

「MRIの結果だけど、特に異常はなし。なにかしら今すぐ変化が起こるわけじゃないと言わざるおえないのかな。正直科学的な根拠は提示できる状態ではないわ」

 結局の所、何も解らないか。期待はそこまでしてなかったがこれからどうしたもんか。

「母さん、入れ替わった事例なんてものはないんだよね」

「さすがに誰かと入れ替わるなんて事例はないわね。ただ以前はなにも知らなかったことが、できるようになっているなんてことはあるわよ」

「いやいや、母さんそれはないでしょう。そんなことできたら天才じゃん」

「『後天性サヴァン症候群』ですか」

「生心君、そんなこと知ってるなんて珍しいわね」

「ただ知識としてですよ」

「え、なになに、わたしも会話にまぜてよ」

「ごめん、ごめん幸与にも教えるは。後天性サヴァン症候群っていうのは、事故などによって脳への強い衝撃が加わることで、記憶力が異常に良くなったり、絵画や演奏等芸術的な分野で才覚をはっきしたりする症例よ。レッスンを一度もしていないのに、頭に強い衝撃を受けてピアノが突然弾けるなんてこともあるのよ」

「もしかしてわたし達の入れ替わりもそれが原因ってことなの?」

「後天性サヴァン症候群みたいなことが起こった、その可能性が非常に高い。あなた達二人が頭をぶつけあった、そのことは覚えてる?」

 そんな記憶は俺の中には残っていない。ぶつかったっていうくらいなら思い出せそうなものだが、どんなに強く思っても思いだすことはできない。

「入れ替わりが起きる前の日は、普通に過ごしていたと思うけど」

「それはないですよ。大谷主任から証言を聞きました。幸与さん、一週間あなたは休んでいることになっています」

「え、仕事、一週間も休んでたんだ……だめだ記憶がはっきりしない。また記憶がなくなっちゃってるのかもね」

「生心君はどうなの?」

「俺も一週間前の記憶は覚えてません」

「なるほど、両者ともに一週間前から記憶はなくなってるのね」

「衛さんはどうなんですか?」

「もちろん知ってるわよ」

「それを先に言ってくださいよ」

「ごめん、ごめん。どの程度記憶があるかもみておきたかったから」

 確かに、どこまで記憶が曖昧かを確かめておくことは必要なことだな。

「母さん、一週間前のわたしってなにしてたの」

「正確には五月十四日。普段通り朝食を食べて、一緒に静岡市に買い物に行ったの。その時に幸与が駅の階段を踏み外して、男の子にぶつかった。それが生心君だった。その時は痛いですんだし、幸与は寝るときまでは普段通りだった。でもその日から寝てきり状態に。色々検査してみたんだけど異常なくて自宅に戻して経過をみてたの。そしたら、入れ替わってるだなんてことになって驚いたわ」

 原因と結果は、案外あっさりと結びつけられてしまった。ただそれが真実かどうかまでは判別ができない。衛さんの言葉だけでは信用できはしない。それに原因が解った所で治療法が出てこなければ、どうすることもできない現状というのはなに一つ変わらなかった。

「とりあえずの原因は解りましたが、処置の方法はどうするおつもりでしょうか」

「さっきも言った通り現状ではおてあげ。だからこそ色々検査しないとね。まずは海馬の働きが本当に正常か調べるから、はい、これかぶって」

 衛さんから黒いヘルメットをわたされて、それをかぶった。

「今から部屋を出て、廊下を歩きエレベーターの前まで行って、そこで十秒ぐらい休んでからからこの部屋に戻ってきてみて」

 衛さんに指示された通り、廊下から少し離れた場所にあるエレベーターの前まで行って十秒休憩してから部屋に戻った。ディスプレイにはわずかに変動する波形と赤、青、緑、紫、黄色のドットで部分的に塗りつぶされたものが表示されていた。

「このドットをよくみて、途中でさっきでてた色と同じ色のドットがあるでしょう。これは休憩している時、脳がさっき通った経路をリプレイして記憶に固定している、つまりは場所細胞に関する海馬の機能が正常に動いているといえるわ」

「へぇ、そんなことまで解るんだ」

「まだまだいろいろ調べたいことはあるけれど、今日はもう疲れてるだろうし検査は日を空けてからにしましょうか」

「わかりました」

 検査が終わり、誰もいない廊下にでる。窓から茜色の光がこぼれていた。

「ふ~やっと終わったね。色々検査して疲れちゃった」

「慣れないことばかりでしたもんね」

「生心君にとっては慣れないものなんだ。わたしは慣れすぎて困るぐらいかな」

 余命がない、それをどうにかするために様々な検査をしてきたからなんだろうな。

「なんにも言わないんだね。余命のこと」

 検査を受ける前に伝えた余命のことを、幸与さんがまた話し始めた。

「いいにくいだろう、いろいろとさ」

 なにか口をすべらせて怒らせたり、深く心を傷つけるようなことを言うとさすがにめんどうだ。あの時ふと感じた喜びにも似た感覚を伝えるのはやめておこう。

「そうだよね。わたしもいいにくかったし…………でも大丈夫。君を死なせたりはしない」

「どこから来るんですか、その自信」

 責任を感じているから、不安を感じているから、そんなことを言ってくれるんだろうけど、それは不愉快だ。嘘を言って、ごまかして、本質を隠すやり口は嫌いだ。

「無責任だよね、具体的なことも決まってないのに……」

「いいですよ別に、幸与さんは責任を感じて心配させまいとしているだけですから」

 握った手を震わしている幸与さんは心配するというよりも怯えているようにもみえる。

 夕闇に照らされる幸与さんは光を失おうとしていたが、無理やり明るく振るまおうとする。

「だめだね暗くなってばかじゃ……生心君、保育園の仕事どうだった」

「ギャーギャーと餓鬼がうるさい」

「餓鬼じゃないでしょ。大切に預からせてもらってるお子さんたち。生心君は子供嫌い?」

 幸与さんは、ひとさし指でぐいぐいとほっぺを押してくる。餓鬼なんて言ったら怒るの解ってたんで別に抵抗はしない。例え相手に怒られようとも、愚痴りたい気持ちで一杯だった。

「別にどうでも良かったんですけど、嫌いになりました」

「え~あんなにかわいいのに、なんでだめなの」

「獣を可愛がる趣味ないんで」

「ひど~い」

「ひどくないですよ。本当疲れたんですよ」

 吐き捨てるように愚痴をこぼしていると、わがままばかりいう子供達の声が耳鳴りのように響いてくる。疲れたという言葉では足りない。地獄と言っても誇張しすぎてはいないだろう。

「たくさんの子供達と接するのたいへんだもんね。でもさ、それもそのうち良いものだなぁて思える瞬間がくるはずだから」

「また根拠のない自信を」

「今回は根拠あるよ。色々なこと気づかせてもらえるって知ってるから」

 幸与さんが言いたいことは俺も頭の中で薄っすらと残っている。

 ありがとうと言ってもらえた瞬間、できるようになったことができるようになった子供の成長を感じる瞬間、それはなんとなく理解できた。

 だけど、それは他人事でしかない。それが本当に良かったと俺自身は思えない。

「ずいぶん当たり前なことだ」

「わたしの記憶からなんか解ったことあるんだ」

「ありがとうの言葉、子供の成長した瞬間が嬉しい、そんなありきたりなことですけどね」

「そっかぁ、わたしの身体もそのことを覚えてくれてるんだ。消えたわけじゃないんだ」

「幸与さんにはその時の記憶ないんですか?」

「わたしにもあるよ。ただ一部の子しか思い出せない。もっともっとたくさんの思い出を与えてもらったはずなのに」

 幸与さんには大切な記憶はたくさんあるんだろうな。余命が少ないから必死に生きて、誰にでもやさしく前向きになれてるから。それに比べて俺は大切にしたいものなんてものはない空っぽの人間。幸与さんと比べるのもおこがましいか。

「幸与さん、そろそろ帰ったほうがよくないですか」

「今日は遅くなるって伝えてあるから大丈夫。それより、学校での様子とか聞かないの?」

「別に興味ないんで」 

「友達できたんだ! 隣の子、智柳美樹ちゃんっていうんだけど、可愛くて可愛くて」

「なに勝手なことしてるんですか」

 この人の場合は積極的に友達になっていそうだ。だからといって勝手なことをされるのは不愉快で、どうでもいいことのはずなのに怒ってしまった。

「そうだね、勝手なことかもしれない。けどね理屈で考えてみて。記憶がないんだから、一人で動こうっていうのも無理があるって思わない」

「う」

「でしょ?」

 理屈で考えるならば確かにその考えたかたは間違ってはおらず、言葉に詰まった。

 幸与さんが段々と俺のことを理解しているからなのか、それとも俺の身体が幸与さんにそういった理屈を考えさせているのか、どちらなんだろうな。

「まぁいいです。目立たない程度に好きにやっててください」

「なんかこうして欲しいとかない?」

「ないです。別に学校とか興味ないですし」

「それなら興味が出るくらいこれからも学校であったことは話さないとだね。あと保育園でのこともちゃんと毎日教えてね。ちゃんとわたしが学校生活おくれてるか、君がちゃんと保育士として働けてるか、共有しとかないと。色々なこと勝手にされちゃうのはやでしょ」

「俺は別に」

「わたしは嫌だけどな~さっき生心君も少し怒ってたんじゃない」

 自分がいらっとしてしまったことを後悔し息を吐き捨てる。くそ、さっきから主導権を握られてばかりだ。それに理屈が通ってるから怒るに怒れん。

「解りました。何度かは話すようにしましょうか」

「あ、後、生心君の両親に入れ替わりのこと話すから、その時の様子も報告するね」

「うちの親がなにかいうとは思いませんけど、まぁいいですよ」

「話したいことは話せたかな。それじゃあね、生心君」

 幸与さんは手を振りスキップしながら帰っていく。俺の姿でやれてるから恥ずかしいし、こういう所は子供ぽいな。さっきまではそれなりに理解ある大人って感じだったのに。

「俺も帰るか」

 病院を出て三分もしない場所に、新道家はある。

 俺は検査と保育士の身体で疲れきった身体を休めるため、新道家に帰宅した。

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