1章 替わる日常 ⑤

 次の日の朝、スマホから鳴るアラーム音を止め、ベットから体を起こした。

 六時半。俺にとっては早い時間帯だが起きれるのは幸与さんの体だからだろう。

 朝食を軽く摂って、早めに外にでる。とりあえず道に迷わないようにしないと。

 幸与さんの住んでいる街は静岡県生方市。

 一歩家から出ただけでそびえたつ山々の雄大さには圧倒される。どこもかしこも緑豊かな場所で澄み切った空気がキレイだ。川のせせらぐ音も、大きな田んぼも俺の住んでいる街にはなかったものだ。おなじ県内だとは思えないな。

 穏やかで、縛られるものがなにもない、この街の風景は嫌いではなかった。

 そんな穏やかな街を堪能できたのはつかの間の間だけ、すぐにさわがしい声が響いてくる。

 この喧騒の中に身を投じるのは嫌で歩くスピードを緩めたが、結局は逃げ出すこともせずに動物立ちが描かれたゲートをくぐり園の中に入った。

 『三島保育園』は中央に砂場などの遊び場が広がり、周りに教室、用具室、職員室がある。上からみると施設がリングドーナツのようにもみえた。

 さらに二階にもあがれ、屋根の上でも遊べるつくりになっている。その証拠に二階の屋根には手すりがとりつけられているのがみえた。

 さて、施設がどうかということは十分に理解はした。だけどそれがゴールではない。

 すでにこの園にはたくさんの子供達がやってきている。保護者達も子供をあずけに来ている。俺もその対応をしなくてはならない。

「ゆきよせんせいおよよう」

「おはようございます」

「きのうね、こんなにおおきなパンケーキやいたんだよ」

「そうなんだ」

「あれ?」

 目の前にいるツンテールの子供が目を丸くしている。まずいことは言ってないと思うが。なぜか硬直していた。

「せんせいまだぐあい、わるいの?」

「悪くなんてないけど」

「う~ん、そうかな。いつもよりげんきないなっておもったんだけど」

 これは不審がられてるのかな、幸与さんは普段からやさしく接してそうだし。

 でも、子供のことなんて気にしねぇほうがいいだろう。対した影響力もねぇだろうし。ここは適当にあしらってこう。

「そんなことないから。教室入ってて」

「う~ん」

 首をかしげている子供を置いて、着替えをするために更衣室に入った。

 着替え終わり、保育士としての格好になり、鏡の前に立ってみる。

「似合ってるよなぁ、幸与さんって」

 目元のゆるい感じも、包容力のある体型も、性格も、俺とはすべてが違っていた。

 ずっと誰かの幸せのことを考えていそうで、俺にないものをすべて持っている。

 だからと言ってそうはなりたいと思わない。それはめんどくさい生き方だと俺は思う。頑張った所で結局は誰かが足を引っ張る。世界は常に誰かを蹴落としながら成り立っているものだ。きっとここでもそう、前向きに生きるなんてんのは馬鹿がすることだ。

 更衣室を出て、まずは大谷主任に挨拶をしにいく。お休みをもらったことに対して礼をいい、どうするべきかの指示をもらうためだ。

「大谷主任、おはようございます」

「おはよう、幸与ちゃん。昨日急にまたおやすみだったけど大丈夫だった」

「はい、少し体調が悪くなっただけですので」

「そんならええんやけど。一週間ぶりやで無理せず頑張ってぇな」

「え、一週間ぶりなんですか」

「そやけど、それがどうしたんか」

 昨日だけじゃなく、それ以前から休んでたってことになるのか。別段おかしいことはないが、幸与さんに確認はとっておいたほうがいいのかもしれないな。

「ああ、別になんでもないです。なにかお手伝いできることありますかねぇ」

「いつも通り登園してくる迎えといて、ほら~! あかん、あかん。どうした、どうした」

「よっくんが~」

 大谷主任は泣きべそをかいている生徒達の所にいってしまった。

 しまったな記憶が曖昧だということを伝えきれなかった。

「は~い、おあずかりします」

「いってくるね」

 周りをみてみると、子供達の遊び相手になってるやつ、保護者から子供達を扱っているやつがいる。外にはそれぞれの教室に入らずにぐるぐると走り回ってる子供達が大量にいた。

 無法地帯、モンキーパーク、そんな状況を見せられてなにもしたくなくなる。 

「ゆうた君のめんどう観ててくれる。わたしは智久君みてるから」

 なにもせずに立ちつくしていたからか、さくら組の担任である近藤さんという保育士から指示をされた。保育士さんの名前は子ども達の数が多くないし、幸与さんの体に残っている記憶のおかげでなんとかなある。

 しかし子供達は解らん。ゆうたって誰だよ。ある程度の名前をいちよう幸与さんに教えてもらってはいたが、数が多すぎて覚えきれねぇ。他の保育士は手が空いてなさそうだし、無害そうな子供に聞いてみるしかないか。

「あのさ~君ってゆうたって知ってる」

「ゆうたくんはあそこだよ、先生忘れちゃったの」

「ああ~なんかちょっとね」

「わたしのおなまえはわかるよね?」

 とりあえず、人の良さそうな感じの女の子に聞いてみたが、逆に困ってしまった。

 名前なんて知らねぇでいいだろうが、これはその先に続きそうだ。なんか言い訳考えねぇと。

「あ~ちょっとね先生、頭をごつんってやちゃって記憶が曖昧になってる所があるんだよ」

 どうせ病院にいくことになっていることを思いだし、とっさに嘘をついた。

「わたし、りっかっていいます。おおたにせんせいをよんできますね」

 立花ちゃんという大谷先生を呼びにいってくれた。えらい、しっかりしてる子だ。こういう子供なんて珍しいんだろうな。

「幸与先生、記憶がなくなたって本当?」

 立花ちゃんが連れてきてくれた、大谷先生が俺に事情を聞きにきた。

 子供の言うことだから真に受けるわけがない。ここはしっかりと言っておいたほうがいいな。

「はい、本当です」

「記憶が曖昧ってどれくらい」

「所々みたいな感じでよく解らないですね。それで今日もまた夕方再検査があります」

「も~う言ってくれればよかったのに~。記憶が曖昧なんて言いずらいのは解るけどね。色々とこっちで指示するから、思いだしながら仕事していこうか」

 とりあえず記憶が曖昧だということ、今日再度検査をしてもらうことを伝えられた。

 この事が早めに広まったおかげで、名前をいくら忘れてようが仕事をいくら忘れてようが、記憶が曖昧だからという言葉で済ませることができた。

 しかし、しかしだ。だからといってこの仕事が楽だということではない。

「おむつの替え方解る?」

「ええ、少しは」

 幸与さんの記憶に残っており、それは解ってしまっている。

 それでもやはりくさいものはくさいし、みたくないものはみえてしまう。そのわりには体がやり方を覚えていて、すんなりと処理できてしまう。すべてが気持ちわるい、すべてが糞だ。こんなことまでやって、子供達はうるせぇし、なんだこの仕事は。

 子供の笑顔が励みになるなんていうことを言いそうだが、俺にはそんな感情はない。

 それからも、ぐるぐると走り回る子を教室に戻したり、穴に入りたがる子を引っ張りだしたり、食事のかたづけをさせたり、布団をしいたり、パジャマに着替えさせたりした。

(なんで俺がこんなことしてんだろう)

 お前ら少しはしっかりやってくれ、親が思っている糞みてぇな気持ちを痛感させられ、まだ仕事を初めたばかりなのに疲労しきっていた。

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