第28話
この場所から出る前に、最後にするべきことがある。
家に帰る。手を洗う。そして、仏壇に向き合う。
線香をあげて、手を合わせる。
仮に、ここが死後の世界として、本当に会いたい人と会えるとして。
もしかしたら、俺が願えば父さんや母さんと会えるのかもしれない。
でも、それを俺は望まない。
幼馴染が死んでいたことは思い出したけれど、失われた記憶が、完全に戻っていたわけではない。未だに最後の言葉が何だったのか、俺にはわからない。
それでいいのだ。分からないまま、俺はいままで生きてこれた。だったら、間が抜けているままでも問題ない。
ずるをしてはいけない。一度でも自ら縋ってしまえば、叶ってしまったら、決心が鈍ってしまう。
なにより、イサナにあんな風に言っておいて、今更なしだとも言えない。
空が雲で覆われて、日は隠されている。風も強い。いつ荒れ始めてもおかしくはない天候だ。
だからといって、一人で先に行くわけにもいかない。
コンビニの前には、誰もいない。中で待っていてもよかったけれど、今は風を浴びていたかった。
イサナは、まだ来ていない。来ないかもしれない。もしその選択をしたら、その時はその時だ。
何度も確認したが、再度、ポケットの中に触れる。そこには、ともりに貰ったお守りが入っている。
持って行けるのかは分からないけれども、これだけは、忘れてはいけないものだ。
スマートフォンの画面を見る。十六時一分。
約束の時間は、過ぎてしまった。
「……まあ、仕方ないか」
妹の方が大事。それもそうだ。それでこそ水瀬イサナだと思おう。別れの言葉をしっかりと言っておけなかった寂しさがある。
これ以上、待っている余裕もない。自転車で向かうとなると、時間もぎりぎりだろう。風もどんどん強くなってきている。急がないと、一雨降ってもおかしくない。
自転車を漕ぎだそうとした、そのとき。背後からエンジン音が聞こえてきた。真っ赤なバイクは俺の隣にやってきた。
ヘルメットを外して、イサナが顔を見せる。
「……私を待たずに、行こうとしてたのね」
「時間も過ぎたし、来ないと思ったんだよ」
「私だって、来るとは思ってなかったわよ」
来るとは思ってなかった、と。イサナの言葉に、どこか揺れ動くものがある。
「恵さんとの別れは、したのか?」
イサナにとっては、妹との二度目の別れになる。今度はイサナから消える形だ。踏ん切りがつかないままに分かれても、いいのか。そう、問いかける。
「……別に、いいでしょ」
「……後悔するかもしれないぞ」
後悔、という言葉にイサナはぴくりと眉を動かす。ただ、それだけだ。
「もう二度と会えないと思ったのに、こんなに一緒にいることができた。だから、それで充分よ」
「……そうか」
言葉を、俺は受け止める。ただ、受け止めるだけだ。何をするわけでもない。
イサナがそうと決めたのだ。これ以上は、俺から言うべきことではない。
「自転車で向かうのは、結構面倒だと思ってたんだ。だから助かった」
せめてもの感謝を告げる。
渡されたヘルメットをつけて、俺はイサナの後ろに乗った。
雨が降り出した。風も強いのは、向かい風だけじゃないだろう。横なぐりのそれに、必死でイサナに捕まり堪える。
人が居ない中では、交通法規も何もない。赤信号を無視して突っ込んでいく。
声が聞こえる筈もない。
肩を強く握る。速度が上がる。
帰ることができる時間は、黄昏時。制限時間は、空が雨雲に覆われている現状正確には分かるはずもない。
でも、間に合うはずだ。暴風防雨以外に、俺たちを妨げるものはないはずだった。
不意に、正面に影が現れた。
突然現れたそれに、スピードを出していたバイクはうまく避けられるはずもなかった。
「あ」
気づいたときには、俺は宙に浮いていた。
意識が一瞬飛んで、しかし痛みによって直ぐに戻される。地面に転がっている。
どうにか体を起こして、邪魔なヘルメットを外す。右腕が痛むけど、折れてはいない。折れたんじゃないかとおもうくらい痛いだけで。
立ち上がり、周囲を見る。バイクは木に突っ込んでいた。バイクから少し離れた場所に、イサナは倒れているのが見えた。雨の中、足を引きずりながら、俺は駆け寄る。
「イサナ……イサナ! 生きてるか!?」
「……大丈夫よ。静かにして」
駆け寄れば、ヘルメットの向こうからくぐもった声が帰ってくる。枝葉がクッションになったのか。ぱっと見の外傷はないみたいだ。
痛んでいない左腕で、イサナの腕を引こうとしたところで、周囲の変化に気づく。まるで台風の目にいるかのように、雨風が止んでいた。
それだけじゃない。周囲を見れば、道の真ん中に、立ちふさがるように一人の少女が立っている。場違いな誰かは、秋だというのに、薄手の白いワンピースをはためかせている。
水瀬恵が、そこにいた。
「私になにも言わずに言っちゃうんだもん、びっくりしちゃった」
ここまで来て、こんなところに、偶然現れる筈もない。イサナの代わりに、俺は尋ねる。
「……知ってるのか?」
「私がもう死んでるってことは、知ってるよ。鳩羽くんと、お姉ちゃんが帰ろうとしてるってことも」
普段と同じ声音で、恵さんは続ける。強い雨の中なのに、耳にはっきりと聞こえてくる。
「鳩羽くんは、行ってもいいよ。付き合わせちゃった感じだしね。今まで、ありがと。けっこう楽しかったよ。でも、お姉ちゃんは、だめ」
恵さんは、ゆっくりとイサナに視線を移す。座り込んだままのイサナを見下ろす。
「ねえ、お姉ちゃん。どうして? 私はお姉ちゃんのことが一番好きだよ。お姉ちゃんは、私のことが一番好きじゃないの?」
糾弾する言葉だ。イサナは、ただ口を閉じたまま、顔を伏せている。
「ねえ、どうして行っちゃうの?」
イサナは、何も言えない。躊躇っている。迷っている。
だから、俺は言ってやる。
「イサナ、お前の好きにしろ」
背中を叩いてやれば、イサナは俺へと顔を向ける。
「思った通りにやるのが、水瀬イサナだろ」
少なくとも、おれはそう信じている。
自分勝手で、注文が多くて、人付き合いが下手で、妹思いで。
そんな彼女のことを、俺は信じてやるしかないのだ。
果たして、イサナは、
「あなたに言われなくても、そのつもりよ」
ヘルメットを外して、憎まれ口を叩いてから、ゆっくりと立ち上がった。
「私も、行きたくない。戻りたくない」
妹に向き合い、言葉をゆっくりと、確かに告げる。
「あなたとずっと一緒にいたい。それは、本当。でも、私がいなくなって……悲しむ人がいるって、知ってるから」
胸の内にあるものを、全部吐き出すように、イサナは続ける。
「あなたが居なくなって、思わない日はなかった。たぶん、これからも、ずっと。だから……あなたとは、もう一緒にはいられない」
「……そっか。うん、そうだよね」
果たして、彼女は何を思ったのだろうか。何を受け取ったのだろうか。
彼女は、目を瞑り、言うのだ。
「なら……お姉ちゃんなんて、どこにでも行っちゃえばいいよ」
水瀬恵は、くるりと振り返り、歩き出す。
「さよなら、お姉ちゃん」
台風の目のような気候は外れて、強かった雨風が戻ってくる。激しい雨の中に、少女の背中は消えていく。
妹の後ろ姿に、イサナは手を伸ばし、しかしそれを足下へと落とす。そんな資格はないとばかりに。けれども、声を張って、叫ぶのだ。
「さようなら!」
気づけば、恵さんは影も形も見えなくなっていた。それでも、最後のイサナの声は、きっと届いている。そう、信じたい。
「急ぐぞ、もう少しだ」
「そう、ね」
この状態で、バイクには乗れない。幸い、歩いてあと少しというところだ。
ただ、立ち上がったイサナは、力尽きたように安定しない。
「ほら、肩でも何でも使えよ」
「……まさかあなたの肩を借りることになるとは、屈辱だわ」
「困ったときはお互い様だろ」
小さな道をかき分けて、終わりに向かって進んでいく。
イサナは、一度も振り返ることはなかった。
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