第27話
教室に入る。既にイサナは席についていた。
誰も来ないのならば妹といればいいのに、律儀なやつだ。それとも、俺を待っていたのだろうか。
だとしたら、少し嬉しいかもしれない。
「ここは蝶か何かが見ている夢、らしい」
俺が話し出しても、イサナはこちらを見ない。窓の向こうを見ている。それでもいい。俺はただ、俺の言いたいことを吐き出しに来ただけだ。
「夢から出るためには、今日の夕方、あの石まで向かう必要があるんだとさ。今日を逃したら、もう機会はないとか」
「……誰から聞いたの?」
「俺の大事な幼馴染から」
「そう……それで?」
「俺は一抜けさせてもらう」
言い切れば、イサナはようやくこちらに顔を向けてくる。
「あなたは、それで本当にいいの?」
「……水族館に行ったとき、イサナは水槽の中の魚が不自由だって話してたよな」
今なら、その気持ちもわかる。今の俺達は、同じだ。
「ここからどこにも進めないし、出られない。そういうことなんだと思う。だから、俺は抜ける」
姉さんみたいに、人生を楽しいと思えるほど俺は成熟していない。前向きでもない。
それでも、何かをするためではなく、何かできるかもしれないというだけで、俺は出て行こうとしている。
「イサナもここから出るなら、十六時までにあのコンビニまで来てくれ。もし行かないなら、俺一人で行く」
「ついてこい、とは言わないのね」
「今更だろ。イサナが妹のことを大切だって思っているのは知ってるからな」
「……なら、なにも言わずに、一人で勝手に帰ればいいじゃない」
妙に突き放してくる発言に、俺はといえばつい溜息をついてしまう。
「な、なによ」
「そういうわけにもいかないだろ。それに、消えるときは一声かけてくれってお前が言ったんだし」
「……なにそれ。いつの話よ」
あっけにとられた顔で、イサナは言葉を零す。
「とにかく、言うことは言った。じゃ、来るなら十六時に集合な」
言うことは言った。俺は、家に帰るとする。誰もいない場所で授業を受けたって意味がないだろう。ともりと話すのも考えたけれど、顔を合わせると決意が鈍ってしまうかもしれない。
じゃあな、と言って去ろうとしたとき、俺の腕を何者かにつかまれた。まあ、ここにはイサナしかいない。まだ用でもあるのかと、振り返る。振り返って、息を呑む。
睨み付けるようなイサナの瞳からは、一筋の涙が零れていた。
結ばれた口が、小さく開く。掠れるような声で、一言。
「行かないでよ」
「……別に、俺がいなくなっても、問題ないだろ」
俺がここからいなくなったとしても、イサナと妹が二人でいるぶんには、何一つとして問題ない。だから、決断だって関係ない、そのはずだ。
「違う。違うの」
続いたのは、耳を疑うような言葉だった。
「あなたに、いなくなって欲しくない」
「……なんだ、それ」
訳が分からない。口からでてしまう。
「俺たちは、別にそういう仲じゃなかっただろ」
イサナがそんなことを言うとは思っていなかった。こんなの、予想もしていない。
友達でも、なんでもない。脅されて始まっただけのつながりだ。
そりゃあ、少しは仲良くはなったかもしれない。それでも、うっすらとした関係で、高校を卒業でもすれば消えるであろう、その程度の繋がりだと思っている。
イサナだって、俺にはなんとも思っていないはずだった。
なのに、イサナの口からは、俺が思い描くようなイサナじゃない言葉があふれ出す。
「私だって、そう思うわよ。でも、いなくならないで欲しいって思っちゃったんだから、仕方ないじゃない!」
イサナの情動を向けられて、俺は何も返せなかった。
目の前のイサナが、そんな風に心をむき出しにするとは思ってもいなかった。
「仲良くなんて、なりたくなかった。あなたのことなんて、知りたくなかった。でも知っちゃったんだから、仕方ないじゃない。私の知ってる人がいなくなるのは、もう嫌なの」
「……俺のせいかよ」
「そうよ、全部鳩羽くんが悪い」
睨む瞳に涙を滲ませて、一方的に捲し立ててくる。
「理解して欲しいだなんて思ってなかった。寄り添ってなんか欲しくなかった。肉親が死んだことなんて、知りたくなかった。だって、そうされちゃったら私、仲間だと思っちゃう。友達だと、思っちゃうじゃない」
人を遠ざけるような素振りも、ただ、失うのが怖かっただけなのだろうか。
わからない。たぶん、イサナも自分の感情がわからないのだ。だから喚くように、俺にあたり散らかしている。
「それでも、俺は行くよ」
俺はともりのことを、もう忘れないと約束した。それを証明しなくちゃいけない。たとえイサナが引き留めようとも、それだけは裏切ってはいけない。
今度こそ、俺は教室を出ようとする。
無言のまま動かないそいつへ、最後に一声かける。
「俺も……俺もたぶん、水瀬のこと、友達になれたらってずっと思ってたよ」
水瀬に話しかけられるずっと前から抱いていた、俺の本心だ。
クールで寡黙で、誰の事なんて気にしても居なかった。そんな俺が憧れていたイサナは見る陰もない。超然とした雰囲気なんて、勝手に抱いていたただの幻想だったのだろう。
なのに不思議と、いま俺が見ているイサナのほうが好きになれそうだった。
だからこそ、別れが惜しかった。
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