第23話
家に帰る。静かな家だ。
違和感はない。手を洗い、湯を湧かす。
頭が痛む。湯舟に浸かれば、幾分収まるだろう。
お守りを着替えと共に置く。信心深い方じゃないのに、なぜか手放せない。
風呂に入る。湯船に浸かる。換気扇は動かしていない。
雨が止んでも風が強い。窓をがたがたと鳴らす音が聞こえてくる。
違和感。
違和感。
違和感。
言いがたい胸に残る引っかかり。がたがたと鳴る音が、どこか不安を誘う。
「……今日も、早めに寝るか」
解決しない問題は、眠ってしまって逃げるに限る。いつものように、食べて寝てを繰り返せばいい。そのはずだ。
暖まりきっていない身体を起こして、風呂から上がる。
タオルで肌を拭い、服を着る。
ふと、背中にある洗面台の鏡に意識が向いた。
鏡越しに、自分の背中が見えた。
そこには、大きな傷跡がある。
「……あ」
頭が、熱くなる。これまでの比じゃない、割れたガラスを突っ込まれたような痛みだ。
これは、警告だ。気づくなと。見て見ぬ振りをしろ、と。そういう警告だ。
出来るはずがない。
だって、この傷は俺の一部だ。
記憶を失って、過去との繋がりも希薄になって、空っぽになった場所。そこに残された、最後の繋がりのはずだった。
俺の傷は、事故のときのものだ。
両親が死んだとき、俺にできたものだ。
「気づくの、遅すぎるだろ、俺」
頭が悲鳴を上げ続けている。吐き気が胸元に迫り、吐きそうになる。
それでも、確認しなければならないことがある。確認しなければいけないことがある
足がふらつく。髪さえ乾かさずに、俺はふらりと浴室を出る。足下しかみえない。でも、前に進む。
姉さんは、家には帰ってきていない。ずっといない。いつからいなかったのか。ここはどこなのか。
分からないまま、家から飛び出した。
自転車で走る。
きらびやかな都会の街ではない。点在する電灯の明かりを頼りに進んでいく。
夜歩きは、あまりしたことがない。こんなときだというのに、妙に高揚感がある。
目的の場所に到着する。夜風を浴びて待つ。風があったからだろうか、濡らしたままの髪は乾いていた。
数分ののち、一台のバイクがやってきた。
「こんな夜中に電話一つで、女の子一人呼び出すなんて随分いいご身分ね」
イサナが、いつも通りの姿でやって来た。バイク用の、ジャケットにズボン。クールな出で立ちに、相変わらずの憎まれ口。それが、今はすこしだけ安堵した。
「大事な用なんだ……直接話したくてな。その前に、買い物していいか?」
「……別に、構わないけど」
なんの変哲もないコンビニの前で、イサナを待っていた。
行き慣れている場所だ。
「ところで、悪い。金がないんだ。あとで金は返すから、借りていいか?」
「そのくらい、気にしなくてもいいわよ」
二人で店に入る。
コンビニに入る。籠を手に取る。カップラーメン。野菜ジュース。いつも通りのそれを、入れて行く。
「……まさか、このためだけに呼んだわけじゃないわよね?」
イサナみたいにそこまで図太くない……と言いたいけど、そのまさかだ。
「ここが始まりなんだよな。俺を撮って、お前に撮られた場所」
俺の言葉に、イサナは口を閉じたまま。
「俺も、早くに両親を失ったって言っただろ。どこかでお前に共感してた……ああ、同じだとは思わなかったからな。あんな風に、必死で妹を探すようなこと、俺にはできなかった。だから、水瀬のことはすごいと思ってたんだよ」
死に向き合おうとすることも。俺なんかとは、大違いだ。だからこそ、手伝おうと思えた。
「じゃあ、これ、頼む」
籠を渡す。イサナは無言で受け取り、レジへと歩を進める。
水瀬は足を止める。
店員なんていない。生きている音も、何も聞こえない。
いないもの相手に、レジを通すことなんて出来るはずがない。
「……やっぱり、イサナも、見えていないんだな。俺の頭だけがおかしくなってたら、どうしようかと思った」
何も買わないままに、コンビニを出る。
「……鳩羽くんは、いつ気づいたの」
「俺は、ついさっきだよ」
「遅すぎよ」
「……まあ、そうだな」
それがおかしいことだと思わなかった。
背中の傷がなかったら、気づくことが出来なかった。
「逆にイサナは……人がいなくなったことに、いつから気づいてたんだ?」
イサナは、最近になってから様子がおかしかった。水族館のあたりか。だから、その頃からと思っていたのだが。
「最初から」
「最初?」
「妹が帰ってきた時から」
「……そりゃ最初だわ」
遅すぎだと怒られる理由には、十二分に足りている。
「妹が生きて帰ってくるはずがない。でも、それを認めてしまったら、居なくなると思った。だから、言えなかった。見ない振りをした。そしたら……どんどん人が消え始めて。でも、あなたは平和そうな顔をしてるんだもの。私だけがおかしくなったのかと思ってたわ」
「悪かったって」
イサナは、俺を見据えてくる。
「それで、鳩羽くんは私に話して、どうしてほしいの?」
「……どうすれば、いいんだろうな。原因……っぽいのは分かってるし」
原因は俺達が願ったからだ。二人だけ正気を保っていられるのなら、原因はそれしかない。あるいは、そうでなかったらお手上げともいう。
「このままだと、どうなるか分からないしな。そのためにも、確認はしときたい」
どうにかする方法なんて、持ち合わせがない。
だから、知っている人間に聞く必要がある。
「鳩羽くんは……あなたは、いいの?」
「いいって、何をだよ」
「私、今日の午後、あなたの事故のことを調べたの。わざわざ図書館にも行って。大変だったわよ」
イサナはスマホの画面を見せてくる。新聞の一部分が、写真をとられている。
小さい見出しで、自動車事故について書かれている。
俺が遭った事故の見出しだ。よく見つけてきたな、と感心してしまう。
「鳩羽くんは、事故に遭ったのは自分と両親の二人だけって言ってた。でも、本当は……」
「……ああ、そうだな」
相対するべき相手が俺にはいた。
「事故に遭った人間は、あと一人居る」
新聞には俺の両親と、それから物部ともりの名前が記されている。
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