第21話
目を覚ます。アラーム音。
違和感。
朝食を食べる。着替える。学校に向かう。
いつもの道を歩いている筈なのに、乖離している。繰り返しているルーチンワークのはずなのに、初めて通る道を前にしたときみたいな、迷子になったような心地。
違和感の原因が、どこ由来か気づく。人の気配がしないのだ。
寒い。
十月の、秋の入りの涼しさじゃない。身体の芯から凍えている。
逃げるように俺は学校に向かう。
教室に入って、いつものように席に座る。いつものように人が居る。安堵する。
聖がまた話しかけにくるかな、と思っていた。恵さんと一緒に水族館に行った話をしたら、「裏切り者め!」なんて言ってきそうだな、と思いながら待っている。
来なかった。
代わりに、イサナがやってくる。
「……そういや、イサナ、お前、聖にちゃんと礼を言ったか?」
「妹と話させてあげてるだけで十分でしょ」
「いやお前、分かってて放置してるのか……」
「まあ、そんなところね」
イサナは、努めてテンションが低いままに返してくる。
それが、今更おかしいもののように思えた。せっかく妹が帰ってきたというのに、いつもと変わっていない。変わっていないことが、どこかおかしい。
待ち望んでいた事の筈だ。もっと喜んでいても、おかしくないだろう。元からそういう人間だったとしても、どこかおかしい気がする。
それがわからない。わかるためのピースの持ち合わせはないし、たぶん、勘違いだ。
「ねえ、鳩羽くん。最近、変な事とかない?」
結論づけて、自分の机に突っ伏そうとしたとき、イサナから声を駆けられる。
「変な事って、なんだよ」
「……変は変よ」
変といえば、イサナが変だ。
なんて冗談めかして言う空気でもない。
あえていうなら、街の雰囲気だろうか。ただ、それは抽象的すぎる。大方、みんな朝の目覚めが悪かったのだろう。そんな日もあるだろう。
おかしくない。そう、何もおかしくはないのだ。
「イサナ、疲れてるんだよ、お前」
「そうね……ごめんなさい。忘れて」
「……疲れてるなら、ちゃんと休んだ方がいいぞ」
「それも、そうね」
素直に受け取るイサナ。始終、様子がおかしい。心ここにあらず、なんて素振りだ。
まるで、何かに気づいて居るみたいに思えた。
それを努めて気にしない。
俺は気づかないことを望んでいる。
頭が、ぼんやりとする。まるで夢を見ているときのようだ。
俺は大人しく授業を受ける。
聖は授業が始まっても、来ることはなかった。
バスが来る。中には誰もいない。俺の後ろにも、誰かが続く訳でもない。
バスから降りた場所も、ひと気がなかった。公園にも、コンビニにも。どこにも誰もいない。電気だけがついていて、人の気配がない。
明らかな異常事態だ。
なのに、俺はそれをうまく認識できていない。
おかしいと思わないことに、おかしいと思う。疑問の入れ子に囚われている。
気づいてはいけないと、頭が警鐘を鳴らす。
早く気づけと、頭が警鐘を鳴らす。
頭が痛みを発し続けている。内側にいる何かが、力任せに扉を叩くように。どくどくと脈動している。
意識が朦朧とする。家まで近いのか、遠いのかもわからない。目についた公園のベンチに、背中を預ける。荒くなる呼吸を、その場で座って落ち着ける。
がさりと草の擦れる音。
反射的に、振り返ると、
「せんぱい、どうしたんですか?」
「……ともりか、驚かせないでくれよ」
慣れ親しんだ声に、なにより人がいることに安堵する。頭痛は継続しているどころか、ともりが現れたことで、より強く拍動している。
「なんでこんなとこいるんだよ?」
「せんぱいが、なんだか、悪いものに憑かれたような顔をしていたので、後をつけました」
両手でピースをしながら、ストーカー宣言とは恐れ入るな、となる。
「せんぱいは私が渡したお守りって、まだ持ってますか?」
何事もないように、ともりが尋ねてくる。不自然にも思わずに、俺は返す。
「……いや、悪い。覚えがない。以前……って、いつのことだよ」
最近渡されていないのは、間違いない。となると小学校の頃になる。不自然なくらいに思い出すことができていない。
「そうですよね。ということで、はい、どうぞ」
有無を言わさず渡されたのは、小さな、朱色のお守りだ。普通と違うのは、文字が書いていないことと、それから下の方が何かが入っているのか、少し盛り上がっていること。握れば、中に硬いものが入ってるようなそんな感触が帰ってきた。
「気休め程度ですが、持っていてくださいな。心が弱っていると、入り込まれてしまう、なんて言いますから。これが、せんぱいを守ってくれますよ」
ともりは、安心させるようににこりと微笑んでくる。
お守りの効能ではないだろうけど、幾分気分が和らいできた。人と会話して、落ち着いてきたのかも知れない。痛みが取り除かれたと言うよりは、ズレていたピントが合ったという、そんな感覚。
「……ありがとな。これ、文字とか書かれてないけど、なんのお守りだ?」
「なんと非売品です。私のお手製ですので。私だと思って、大切にして下さいね。間違っても、またなくしたりしないように」
「……くれぐれも気を付けます」
頭痛が治まってきて、元気も戻った。さあ、帰ろう……というところで。
「雨、降って来ちゃいましたね」
「最近、よく降るな……」
公園のベンチは屋根付きだった。幸いとも言うべきか、あるいはもう少し遅ければ、ともいうべきか。しばらく、身動きが取れなくなってしまいそうだ。
「せんぱいは、最近はどうです? 人生、楽しんでいますか?」
楽しんでいるか。
どうだろう。
「……わからん」
平穏に過ごせればいい、なんて少し前までは思っていた。
それに過度な楽しみは、毒だと思って、心の中でブレーキをかけ続けている。
幸せになったら、落ちたときが恐ろしい。失った時のことなんて考えたくもない。だから目の前のことにもちゃんと向き合うことができていない。
「私は、楽しいですよ」
隣のともりは、怖いものなんてないみたいに語る。
「昔は、せんぱいとずっと一緒にいられると、思ってたんです。だから、最近は本当に嬉しいんですよ? そこのところ、ちゃんと分かってますか?」
「……わからないって言ったのは、撤回する。結構、楽しんでるんだと、思う」
幸せを、認めよう。充実していると、認識しよう。だからこそ、これ以上を望むのはよくないのだ。これは多分、必要なブレーキだ。
ともりは微笑んで、それから空を見上げた。
「雨、止みましたね」
家に帰る。
一人の家だ。
思考は透明だ。
疑問には思わない。
何もおかしくない。
気づかなくていい。
このまま。このままで。このままでいい。
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