第20話
水族館の館内を軽く見て回ったところで、イルカショーの会場に向かう。屋内のその場所には、で、早々に席を確保する。席順は俺、イサナ、恵さんだ。
開始まであと十五分程度ある。席の確保もあるから少し早めに、と思ってきた。とはいえ早すぎたかもしれない。元から館内に客は多くなかったのだ。殊更急いでくる必要も、なかったのかもしれないな、と思っていたところ。
「鳩羽さん、ここでお昼にしましょう」
といって、恵さんが手提げから取り出したのは弁当箱。元からその予定で早く来たみたいだ。
「私達で作ってきました! といっても、ほとんどお姉ちゃんが作ってくれたんですけど」
「イサナが……? あの、イサナが……?」
「私だって料理くらいするわよ」
「お姉ちゃん、とっても上手なんですよ!」
「まあそれほどでもあるけど……」
握りこぶしで語る恵さんに、鼻高々になるイサナ。その横で、俺は慄く。一体、これほどまで積まれるとなると、どんな無理難題を投げられるかと戦々恐々としてしまう。
「今日は、本当にお礼のためだから。何も頼んだりしないわよ」
イサナは後付けで注釈してくる。言い切られてしまえば、俺としては退路もない。
「というかイサナ、お前俺が来なくてもいいとか言ってたけど……よくはないだろ」
「別に、来たからいいじゃない」
「まあ、いいけどさぁ」
悪態をついてしまうが、正直に言おう。めちゃくちゃ嬉しい。それはもう、相手がたとえイサナであっても、女の子が作ってくれた弁当というだけで一等価値がある。
期待を持って弁当箱を開ければ、そこにはからあげ、ハンバーグ、生姜焼き、エビフライ……
「肉しかねえ」
「男の子って肉が好きなんでしょ?」
「全部肉なのは流石に限度があるだろ。いやまあ、ありがたく食うけどさ……」
もそもそと食べる。確かに美味しい。が、肉尽くしなのは予想外だった。健康志向ではないけれど、運動部でもない身で肉ばかりはけっこう重たい。横目で二人の弁当を見れば、茶色一色ではなく、野菜の彩りに溢れている。
「……仕方ないわね、ほら」
イサナはため息をついて、箸を差し向けてくる。そこには卵焼きが挟まれている。
「何? 自慢? 見て楽しめってこと?」
「そんなことあるわけないでしょ。物欲しそうに見られるのも困るし……ほら、はやく食べなさい」
至極当然のような顔で、差し出してくる。
「ほら、早く食べなさいよ」
「……いや、ほら、だからここに置いてくれよ」
「だからそのまま食べればいいじゃ……ない…………」
イサナは目の前で停止して、卵焼きをそっと、俺の白米の上に置いた。
「妹に、いつもしてることなの。分かる?」
「わかったわかった……」
「……ちょっと風、浴びてくるわ」
イサナの背中を見送る。その背中にかける声は見つからなかった。今はただ、そっとしておこうと思う。
イサナが居なくなれば、当然恵さんと二人になる。恵さんは、距離を詰められる。
「その、私のことを最初に見つけてくれたのは鳩羽さん……なんですよね?」
「ああ……その話な。一応、そうなる。でも、見つけたのも、偶然だよ。俺が通らなくても、すぐに誰かが見つけたよ。水瀬だって直ぐに来てたし」
「でも、お姉ちゃんと一緒に探してくれたって聞いたけど」
「実は脅されてやったんだよ。嫌々だよ嫌々」
「ふふ、そうなんだ」
本当のことを話してみたのだけど、余り信じてもらえてなさそうだ。
それから、一呼吸置いて、恵さんは尋ねる。
「……あのさ私、お姉ちゃんに迷惑かけてるように見えないかな?」
「え? いやそれは絶対にない。あいつ俺が知ってる限り、ずっと恵さんのこと考えてたぞ。迷惑がいくらかかっても、ご褒美みたいなもんだろ」
「そ、そうですか」
「逆に、どうしてそう思うのか聞きたいくらいだよ……なんかあったのか?」
「そういう、具体的に何があったってわけじゃ、ないんだけどね」
視線を下げたまま、恵さんは続ける。
「私、けっこう悪い子だから。昔っから、お姉ちゃんがどうにかしてくれていて。いまだって、お姉ちゃんがいてくれるから、どうにか生活できているようなものだし。あの頃も、驚かせようと隠れて……それで……」
そこまで言ってから、恵さんははっと顔を上げた。
「ごめんなさい。大丈夫なら、それで問題ないや」
「……まあ、恵さんが納得したなら、それでいいけど」
「あと鳩羽さんって、やっぱりお姉ちゃんと付き合ってたりしない?」
「いや、それはない。あり得ない」
便利に使われているだけだ。聖からも言われたけど、周りから違うように見えるのか。いまいち分からない。
「あんな風に気兼ねないお姉ちゃんを見るの、初めてだよ」
「いや違う違う違う。ないない、まずもってありえない。あいつとは百パーセントそういうのじゃない。あいつとは……」
あいつとは、続けようとして、言葉に迷う。ないのなら、何なのだろう。
水瀬とは、そういう関係ではない。間違っても、恋慕やらなにやらと湿った仲ではない。
適切な回答はなんなのか。俺と水瀬の関係は、なんといえばいいのか。
イサナに話す前は、憧れが先に立っていた。自分ではああはなれないと、遠巻きに見ているだけ。それが脅されて関わるようになって、水瀬の中身をみて、よく分からなくなってしまった。
脅す人と脅される人と関係も、ついこの間終わってしまった。
言い淀んでいると、真剣な表情で視線を向けられる。
「鳩羽さん……お姉ちゃんのこと、よろしくお願いね」
何か返さないと、勘違いされたままな気がする。
「いや違う誤解だから。俺は仏頂面のイサナより、どっちかっていうと恵さんみたいな笑顔が明るい子が好みだし」
「誰より誰が好みですって?」
「だからいつも怖そうな顔をしてくるイサナより恵さんの方が……」
言いかけて、すんでのところで止める。戻ってきたイサナが、俺を見下ろしている。
「いや違うんだイサナ、話を聞いてくれ、これは誤解で……」
「……いいわよ、別に。人の妹を口説いていたことはともかくとして、私の妹がかわいいのは当然のことだから」
いつもの妹溺愛で叩かれた方がまだ落ち着く。逆に優しくされると、後ろで何を考えているか分からず気が気でない。
イサナに見えない角度で、恵さんは俺に目を向け、手を合わせていた。ごめんなさいのポーズだろう。この様子だと、どうにも勘違いは継続されているみたいだ。
気づけば十四時。回り始めて二時間程度だが、小さいから十二分に見て回った。
恵さんはもう一周回ろうとするが、水瀬姉から引き留められる。名残惜しそうだが、水瀬姉に引っ張られて退場する。
来た時と同じように、水族館の前で解散の運びだ。とはいえ、しばらくはバスで顔を合わせるのだけれども。
「今日はありがとうございます!」
「いや……おれも誘ってくれて、助かった。こういうところには、一人で行こうとも思わないしな……久しぶりに来ると、結構楽しいもんだな」
本心からの返事だ。なにせ友達がいなさすぎて、家に一人でいる夏休みを過ごした人間だ。こういう形で連れ出されなければ、近くにあっても来る機会もない。
俺の返事に、恵さんは嬉しそうににこりと微笑む。
「また、一緒に遊びに行きましょうね? ……今度は二人でもいいですよ?」
「姉の方が怖いからそういう冗談はやめてくれ……」
「なら冗談ということにしておきましょうか」
妹がこんな風にやりとりをしているというのに、肝心の姉の方は、無言で俯いていた。
「イサナ、もしかして疲れてんのか? 大丈夫か?」
茶化すように言ってやるも、返事はない。本気でつかれているのかと心配になるも、
「お姉ちゃん、ほら」
と妹に背中を叩かれ、イサナはおずおずと顔を上げる。
「鳩羽くん、ありがとう。その、いままで、色々と」
いつもみたいな、確信を避けるような歪曲的な物言いでもない。率直なそれを、面と向かって受け取るにはやや重い。
「……イサナに素直に礼を言われるなんて、明日は雨でも降るかな」
いつもと違う、イサナの様子。急に変化球を投げられても、適切な返答に持ち合わせはないのだ。気恥ずかしさが先に来て、結局。いつものような言い方で返してしまう。
いや、イサナが恥ずかしそうに言うのが悪いのだ。などと心の中で
「……明日は雷雨の予報よ」
「マジで?」
「冗談よ」
「いや、ちょっと信じちゃったじゃん」
返しながら、笑ってしまう。イサナの当然みたいないつもの表情が、余計に笑いを誘う。でもその変わらない表情が、いつもよりも柔らかく見えた。
恵さんはといえば、それを不思議そうな顔で見ている。
どういう関係か、と問われた。
少なくとも、こうして軽口が叩ける関係だ。
きっかけは脅しだったけど、イサナと話すのは嫌いではない。
変な貸し借りは必要ない。俺達の間では、それぐらいで十分だ。
そうして日々は廻る。
恵さんが入っても、大きな変化が起こることなく、動いていく。順応していく。
平和だ。
平穏そのものだ。
だからおかしい。
五年も失踪していた人間が帰ってきたのだ。
海に消えた少女が、再び海からやって来た。
なのに、何も聞いていない。テレビをつければつまらないニュースが映し出される。
死んだはずの人間が現れただなんて奇跡的なこと、大きく取り上げられてもおかしくはない。
違和感がある。明確に。
なのに、俺は気づかないままでいる。
何故か。俺自身が、気づこうとしないからだ。
俺は言う。
気のせいだ。
意識しなくていい。
間違っているのは俺だ。
違和感に構うことはない。
日常のサイクルを回していけ。
気づかないふりをするだけでいい。
――そうすれば、変わることのない日々を送ることが出来る。
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