第10話

第二話 花嫁衣装のたた





「奥さま、ですか」


「聞き返すとはお前らしくないね、さかき



 そういちは穏やかに言い、榊のれた茶の湯飲みをテーブルに置いた。


 榊、と呼ばれた男の使用人は、宗一に深々と頭を下げる。



「申し訳ございません。今後はこの榊、じようさき家の奥さまにも、心よりの忠誠を誓わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします、奥さま」


「その、どうぞ、よろしくお願いいたします……」



 あおいは居心地悪く頭を下げた。本当ならば床にいつくばりたいところだが、足下に敷かれているのは見るからに高級そうな青色のじゆうたんだ。触れるほうが申し訳ないのかも、と思って、蒼は椅子の上で固まっていた。


 城ヶ崎宗一。蒼に結婚を告げた彼がどんな人間かは、ひとめ見た瞬間から薄々分かっていた。育ちがよく、資産家で、ひょっとしたら華族かもしれない。


 果たして、その予測は全て当たった。


 着の身着のままの蒼が連れてこられた城ヶ崎家のしきは、予想をはるかに超える規模であった。とうきようの中心部からは少々離れ、ここは飛鳥あすかやまの紅葉も鮮やかなおうの一角。なだらかな丘陵地帯にこんもりしげった森に囲まれ、美しい和洋折衷の庭園が広がっている。西洋庭園の向こうに堂々たる洋館がたたずむさまはまさに英吉利イギリスの本で見た挿絵そのものだし、裏手には純和風の屋敷も併設されているという豪華ぶりだ。


 生まれて初めて乗った自動車を降りたときから、蒼は言葉が喉に詰まってしまい、宗一に付き従うことしかできなくなってしまった。これまた立派な屋敷門をくぐると、しずしずと使用人たちが現れる。その数ざっと十人ほど。


 その筆頭が目の前に居る男、榊であった。



「婚儀につきましては、できうる限りの手順を踏んでまいりましょう。蒼さまは天涯孤独とのこと。親族代理を頼む方もいらっしゃらないようでしたら、城ヶ崎家だけで話を進めさせていただきます。まずは親戚の皆様方に一報を入れますが……」



 てきぱきと話す榊は、年の頃は宗一と同じ二十代後半か、半ばくらいなのだろう。宗一よりがっしりとした体に地味な黒の洋装をまとい、半分白くなった黒髪をきちんと後ろへなでつけている。片目を眼帯で覆っているところを見るに、顔と頭に傷を負ったと見える。白髪もおそらくそのせいだ。



「なるべく手続きは省略したい。老人たちが怒らないようにくやってくれ」



 宗一は当然のように、とんでもないことを言う。


 本当に私などと結婚する気だ、と気付き、蒼は目の前が暗くなった。


 結婚。最初はさっぱり頭に入らなかったその言葉が、どんどん重くのしかかる。


 蒼と宗一、榊の三人が居る部屋は、宗一の言うところの居間だ。『家族のための部屋だからくつろいで』と言われたが、室内は黒と紫を基調にした最新の和洋折衷。畳の上に敷かれた絨毯も、繊細な文様を彫り抜いたこくたんにガラスを置いた食卓も、紫色の布を張った黒檀の椅子も、何もかもが見たことがないくらい高価そうだ。


 看護婦ならばともかく、自分がこんなところの嫁になるのは無理がある。


 一呼吸ごとにそう思ってくらくらするし、榊も内心はそう思っていると思う。


 宗一の無茶な要求に、榊は少し躊躇ためらってから言う。



「最善を尽くすお約束はいたします。まずは蒼さまと同年代のお嬢さまたちから攻略をいたしましょう」


「任せよう」



 浅くうなずいて言い、宗一はほおづえをついて蒼を見つめる。


 蒼は慌てて視線を落とし、必死に食卓の上をにらんだ。卓上の湯飲みも信じられないくらい薄く作られており、はぎくさとトンボが品良く描かれている。



「では……」



 榊が口を開くが、宗一は蒼に声をかけた。



「蒼は、そのちやわんが気に入ったのかい」


「はい?」



 驚いて顔を上げると、宗一は楽しそうに蒼を見ている。


 話を遮られた榊のほうは、無表情ながらどこか不機嫌そうだ。


 私より先に榊さんの相手をしてくれないかしら、と思いつつ、蒼は小さくなって言う。



「大変美しい茶碗だと思っておりました。絵付けが繊細で……」


「では、婚礼のために同じ窯元に作らせようか。絵柄は蒼い鳥にして」


「作らせる? え? お茶碗をですか?」



 蒼はオウム返しに繰り返す。部屋の隅にしつらえられた、宮殿みたいに豪華なおりの中で、宗一のハヤテが「ケェッ」と短く鳴いた。宗一はにこにこと榊を見上げる。



「ハヤテも賛成だそうだ」



 榊はあらゆる感情を押し殺した様子で、淡々と言う。



「ハヤテは腹が減っているのだと思います。茶碗の件は申しつかりました。では、急ぎ根回しを致しますので、失礼いたします」



 会釈したのち、榊は足早に去って行く。



「あいつはあれで、何事もどうにかするんだ。蒼も何かあったら頼りなさい」



 宗一は榊の背中を見送りながら、のんびりと言う。蒼はおそるおそる切り出した。



「……あの、城ヶ崎さま」


「宗一と呼ぶように。あなたはわたしの妻になるのだからね」



 真面目ぶって言われ、蒼は朱で染め上げたかのように赤くなる。



「そ、その件なのですが……さすがにご冗談でおっしゃっているのでしょう? 私はあなたの妻になれるような人間ではございません。榊さんも心配しておられるようですし、根回しとやらを始める前に、この女はただの看護婦だとおっしゃっていただいて……」


「言ったはずだよ。君のことは看護婦ではなく、妻にする、と」



 宗一は静かに言い切り、湯飲みを取って一口飲んだ。その美しい所作も、きっぱりとした言いようも、少しもうそらしくない。このひとは本当のことを言っている。


 それがわかるからこそ、蒼はひどく混乱した。



「けれど、私と宗一さんでは、まったく釣り合っておりません……!」



 精一杯強く主張する。湯飲みに落ちていた宗一の物憂げな視線が、ゆるりと蒼の上に定まる。落ち着いた視線なのにぐ貫かれたような気持ちになって、蒼はびくりとした。



「ならば、釣り合うようになりなさい」


「釣り合う、ように……?」



 あつにとられて繰り返す。


 宗一は穏やかに笑み崩れ、冗談めかした口調になる。



「仕方がないだろう、あなたは看護婦だったら納屋で寝るなんて言い出すんだから。奥方ならばきちんとした部屋に住み、わたしに甘やかされてくれるはずだ。結婚しよう」


「そんな理由なのですか? 私のようなものを甘やかすだなんて、どうかしていらっしゃいます……!」


「楽しみだな、甘やかしたあなたから何が咲くのか」



 宗一は目を細めて言い、小さくき込む。


 嫌なせきの音だ。蒼ははっとして腰を浮かせた。


 そのまま宗一の様子をじっとうかがっていると、彼は疲労した視線を投げてくる。



「……安心しなさい、結婚なんて、形だけのものだから」


「形だけ……」


「そう。わたしはね、洋行帰りの宗一が若い看護婦をはべらせている、愛人ではないのか、なんて言われるのが面倒なのだよ」


「……なるほど、そういうことなのですね……」



 蒼はつぶやき、おとなしく座り直した。宗一に悪評が立たないためと言われれば、それも仕方がないような気がしてくる。とはいえ、使用人たちには真実を周知してほしいものだが……。


 宗一は軽く息を整えると、蒼に向き直る。



「わたしの病だが、これは病名どころか原因も不明の奇妙なものでね」



 蒼は真剣な面持ちで宗一の話を聞いた。


 明治のこの時代、日本の医療は漢方とらんぽうから独逸ドイツ風にかじを切っている最中である。医学校で様々な西洋医師たちがきようべんを執り、最先端の医療技術を伝える一方で、地方には原因不明の風土病がはびこり、結核や赤痢など、様々な伝染病も猛威を振るっていた。


 謎の病と言われればおびえるほうが普通だったが、蒼は自分など生きようが死のうがどうでもよい。自分を助けてくれた宗一だけが大事だから、病など怖くはない。



「お医者さまにはかかられたのですか?」



 蒼は膝の上できゅっと拳を作って聞く。



「ああ。だが病名がつかなかった。症状を抑えるには、知り合いの漢方医に作ってもらった薬をむしかない。──君には、薬のありかを教えておこう」



 宗一は物憂げに言い、どことなく疲れたような視線を蒼に向けた。



「またわたしが倒れたら、あなたはわたしに薬を与えてもいいし……与えなくてもいい」


「でも、その薬なしでは病状が悪化してしまうのでしょう?」



 おそるおそる聞くと、宗一はあっさりと答える。



「そうだね。遠からず死ぬだろう。だからあなたは、わたしの遺産が欲しくなったら、わたしに薬を与えなければいいんだよ」


「宗一さま!」



 蒼は目をまんまるにして、思わず立ち上がる。


 冗談ならよかったが、そうでないことは見ればわかった。彼はんでいる。病人特有の生への執着と生への倦みが、等量ずつせめぎ合っているのがよくわかる。


 蒼は足下から寒気が上ってくるのを感じた。



「あなたは、この世で唯一の、私の味方を殺せとおっしゃるのですか……?」



 やっとのことで絞り出した声は、震えていた。


 宗一が蒼を見つめ、つぶやく。



「蒼」



 驚いたような声音。その直後、宗一は心をぴたりと閉ざしてしまった。


 閉ざした心の上に、いつもの穏やかで余裕のある微笑が載る。



「こちらへおいで」



 宗一が手招いている。蒼は躊躇いつつも、食卓を避けて宗一のそばへと歩いて行く。


 宗一が手を伸べるので、蒼はその手におそるおそる自分の手を重ねた。宗一は蒼の手をしっかりと握ると、静かに言う。



「蒼、すまなかったね。わたしはできるかぎり、あなたのために生きよう」



 私のために。私なんかのために。


 とっさにおびえて否定したくもなるが、だが、そんな理由でも、宗一が生きてくれるのなら、いいのかもしれない。蒼は乾いてしまった唇を、薄く開く。



「私などで、宗一さまのお役に立つなら。私、ここにおります」



 蒼はささやき、つないだままだった宗一の手を、ぎゅっと握り直した。


 宗一の手は、ほっとする。


 握るだけで守られているような気持ちになれて、心がゆるむ。


 けれど、この気持ちにぼんやりと身を任せていてはいけない、ともどこかで思う。


 今までだってそうだった。少しでも気を抜いたなら、きっとどんでん返しがくるのだ。




 ──実際、蒼の予測は正しかった。


 蒼が思う以上に城ヶ崎家は名家であり、使用人たちも、親戚筋も、こんなにも唐突な婚姻を歓迎はしなかったのだ。




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