第10話
第二話 花嫁衣装の
「奥さま、ですか」
「聞き返すとはお前らしくないね、
榊、と呼ばれた男の使用人は、宗一に深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。今後はこの榊、
「その、どうぞ、よろしくお願いいたします……」
城ヶ崎宗一。蒼に結婚を告げた彼がどんな人間かは、ひとめ見た瞬間から薄々分かっていた。育ちがよく、資産家で、ひょっとしたら華族かもしれない。
果たして、その予測は全て当たった。
着の身着のままの蒼が連れてこられた城ヶ崎家の
生まれて初めて乗った自動車を降りたときから、蒼は言葉が喉に詰まってしまい、宗一に付き従うことしかできなくなってしまった。これまた立派な屋敷門をくぐると、しずしずと使用人たちが現れる。その数ざっと十人ほど。
その筆頭が目の前に居る男、榊であった。
「婚儀につきましては、できうる限りの手順を踏んでまいりましょう。蒼さまは天涯孤独とのこと。親族代理を頼む方もいらっしゃらないようでしたら、城ヶ崎家だけで話を進めさせていただきます。まずは親戚の皆様方に一報を入れますが……」
てきぱきと話す榊は、年の頃は宗一と同じ二十代後半か、半ばくらいなのだろう。宗一よりがっしりとした体に地味な黒の洋装をまとい、半分白くなった黒髪をきちんと後ろへなでつけている。片目を眼帯で覆っているところを見るに、顔と頭に傷を負ったと見える。白髪もおそらくそのせいだ。
「なるべく手続きは省略したい。老人たちが怒らないように
宗一は当然のように、とんでもないことを言う。
本当に私などと結婚する気だ、と気付き、蒼は目の前が暗くなった。
結婚。最初はさっぱり頭に入らなかったその言葉が、どんどん重くのしかかる。
蒼と宗一、榊の三人が居る部屋は、宗一の言うところの居間だ。『家族のための部屋だからくつろいで』と言われたが、室内は黒と紫を基調にした最新の和洋折衷。畳の上に敷かれた絨毯も、繊細な文様を彫り抜いた
看護婦ならばともかく、自分がこんなところの嫁になるのは無理がある。
一呼吸ごとにそう思ってくらくらするし、榊も内心はそう思っていると思う。
宗一の無茶な要求に、榊は少し
「最善を尽くすお約束はいたします。まずは蒼さまと同年代のお嬢さまたちから攻略をいたしましょう」
「任せよう」
浅くうなずいて言い、宗一は
蒼は慌てて視線を落とし、必死に食卓の上を
「では……」
榊が口を開くが、宗一は蒼に声をかけた。
「蒼は、その
「はい?」
驚いて顔を上げると、宗一は楽しそうに蒼を見ている。
話を遮られた榊のほうは、無表情ながらどこか不機嫌そうだ。
私より先に榊さんの相手をしてくれないかしら、と思いつつ、蒼は小さくなって言う。
「大変美しい茶碗だと思っておりました。絵付けが繊細で……」
「では、婚礼のために同じ窯元に作らせようか。絵柄は蒼い鳥にして」
「作らせる? え? お茶碗をですか?」
蒼はオウム返しに繰り返す。部屋の隅にしつらえられた、宮殿みたいに豪華な
「ハヤテも賛成だそうだ」
榊はあらゆる感情を押し殺した様子で、淡々と言う。
「ハヤテは腹が減っているのだと思います。茶碗の件は申しつかりました。では、急ぎ根回しを致しますので、失礼いたします」
会釈したのち、榊は足早に去って行く。
「あいつはあれで、何事もどうにかするんだ。蒼も何かあったら頼りなさい」
宗一は榊の背中を見送りながら、のんびりと言う。蒼はおそるおそる切り出した。
「……あの、城ヶ崎さま」
「宗一と呼ぶように。あなたはわたしの妻になるのだからね」
真面目ぶって言われ、蒼は朱で染め上げたかのように赤くなる。
「そ、その件なのですが……さすがにご冗談でおっしゃっているのでしょう? 私はあなたの妻になれるような人間ではございません。榊さんも心配しておられるようですし、根回しとやらを始める前に、この女はただの看護婦だとおっしゃっていただいて……」
「言ったはずだよ。君のことは看護婦ではなく、妻にする、と」
宗一は静かに言い切り、湯飲みを取って一口飲んだ。その美しい所作も、きっぱりとした言いようも、少しも
それがわかるからこそ、蒼はひどく混乱した。
「けれど、私と宗一さんでは、まったく釣り合っておりません……!」
精一杯強く主張する。湯飲みに落ちていた宗一の物憂げな視線が、ゆるりと蒼の上に定まる。落ち着いた視線なのに
「ならば、釣り合うようになりなさい」
「釣り合う、ように……?」
宗一は穏やかに笑み崩れ、冗談めかした口調になる。
「仕方がないだろう、あなたは看護婦だったら納屋で寝るなんて言い出すんだから。奥方ならばきちんとした部屋に住み、わたしに甘やかされてくれるはずだ。結婚しよう」
「そんな理由なのですか? 私のようなものを甘やかすだなんて、どうかしていらっしゃいます……!」
「楽しみだな、甘やかしたあなたから何が咲くのか」
宗一は目を細めて言い、小さく
嫌な
そのまま宗一の様子をじっとうかがっていると、彼は疲労した視線を投げてくる。
「……安心しなさい、結婚なんて、形だけのものだから」
「形だけ……」
「そう。わたしはね、洋行帰りの宗一が若い看護婦を
「……なるほど、そういうことなのですね……」
蒼はつぶやき、おとなしく座り直した。宗一に悪評が立たないためと言われれば、それも仕方がないような気がしてくる。とはいえ、使用人たちには真実を周知してほしいものだが……。
宗一は軽く息を整えると、蒼に向き直る。
「わたしの病だが、これは病名どころか原因も不明の奇妙なものでね」
蒼は真剣な面持ちで宗一の話を聞いた。
明治のこの時代、日本の医療は漢方と
謎の病と言われればおびえるほうが普通だったが、蒼は自分など生きようが死のうがどうでもよい。自分を助けてくれた宗一だけが大事だから、病など怖くはない。
「お医者さまにはかかられたのですか?」
蒼は膝の上できゅっと拳を作って聞く。
「ああ。だが病名がつかなかった。症状を抑えるには、知り合いの漢方医に作ってもらった薬を
宗一は物憂げに言い、どことなく疲れたような視線を蒼に向けた。
「またわたしが倒れたら、あなたはわたしに薬を与えてもいいし……与えなくてもいい」
「でも、その薬なしでは病状が悪化してしまうのでしょう?」
おそるおそる聞くと、宗一はあっさりと答える。
「そうだね。遠からず死ぬだろう。だからあなたは、わたしの遺産が欲しくなったら、わたしに薬を与えなければいいんだよ」
「宗一さま!」
蒼は目をまんまるにして、思わず立ち上がる。
冗談ならよかったが、そうでないことは見ればわかった。彼は
蒼は足下から寒気が上ってくるのを感じた。
「あなたは、この世で唯一の、私の味方を殺せとおっしゃるのですか……?」
やっとのことで絞り出した声は、震えていた。
宗一が蒼を見つめ、つぶやく。
「蒼」
驚いたような声音。その直後、宗一は心をぴたりと閉ざしてしまった。
閉ざした心の上に、いつもの穏やかで余裕のある微笑が載る。
「こちらへおいで」
宗一が手招いている。蒼は躊躇いつつも、食卓を避けて宗一の
宗一が手を伸べるので、蒼はその手におそるおそる自分の手を重ねた。宗一は蒼の手をしっかりと握ると、静かに言う。
「蒼、すまなかったね。わたしはできるかぎり、あなたのために生きよう」
私のために。私なんかのために。
とっさにおびえて否定したくもなるが、だが、そんな理由でも、宗一が生きてくれるのなら、いいのかもしれない。蒼は乾いてしまった唇を、薄く開く。
「私などで、宗一さまのお役に立つなら。私、ここにおります」
蒼は
宗一の手は、ほっとする。
握るだけで守られているような気持ちになれて、心がゆるむ。
けれど、この気持ちにぼんやりと身を任せていてはいけない、ともどこかで思う。
今までだってそうだった。少しでも気を抜いたなら、きっとどんでん返しがくるのだ。
──実際、蒼の予測は正しかった。
蒼が思う以上に城ヶ崎家は名家であり、使用人たちも、親戚筋も、こんなにも唐突な婚姻を歓迎はしなかったのだ。
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