第9話

 蒼ははっとして、坂本のほうを振り返る。


 坂本は鼻息荒く突っ立っている。ぐい、と睨まれると、蒼は反射的に視線を逸らしそうになる。するとすかさず、栞の君が手を握ってくれた。大きくて、骨張っていて、ひんやりとした手だった。どこか、懐かしいような手だった。


 栞の君はのろのろと上半身を起こし、蒼の手を握ったまま囁きかけてくる。



「あなたの力は妖しげなものではない。いずれ世界を救う力だ。あなたは正しい。わたしが許す。あの男をごらん、蒼。あなたにはもう、見えているはずだ。奴の正体が」


「栞の君……」



 蒼は驚いて栞の君を見つめる。蒼の『サトリ』の力をそんなふうに言ってくれるひとなんて、生まれて初めて出会った。栞の君は、なおも続ける。



「君はその力で自分を救うことができる。だから、あの男をごらん。そして、見えたものをそのまま、語ってみせるがいい。君のために──わたしのために」



 何がなんだかわからないまま、その声にどんと背中を押された気がした。


 蒼はゆるりと坂本を見ると、己の目に力を込めた。


 ずっとはっきり見なかった自分の許嫁を、見た。


 初めて、本気で。全力で、見た。


 途端に膨大な量の情報が押し寄せてくる。顔色、肌つや、呼吸、汗の量、におい、毛の生え方、所作、体の均衡、爪の色、肌の色、白目の色、血管の浮き具合、癖、立ち方、筋肉の付き具合、手足の大きさ、視線の行く先、表情の作り方、人間のすべて。


 今までとは段違いの情報が蒼の全身に押し寄せてきて、蒼はあえぐ。


 そのあとは、言葉が勝手にあふれ出してきた。



「坂本さま、あなたはたまに足を引きずっておられます。最初は怪我かとも思いましたが、いつまでっても治る気配はありません。むしろ痛む時期が増えている。となればこれは病でありましょう。息も甘ったるく、顔色もどこか黄色い。そういう方は肝臓が悪いのだと、本で読んだことがあります。おそらくはお酒を召し上がりすぎているのでは」


「なんだと?」



 坂本はぎょっとした様子で蒼を見返す。目の色がひどく動揺している。図星を突かれたのだ。そのうえ、無知で気弱だと思った蒼に本当のことを言われておののいている。


 蒼は無意識のうちに栞の君の手を強く握り、さらに続けた。



「それと、あなたはひと月ほど前から腕をかばいますね。そこにお怪我があるのでしょう。右腕にふたつ、左腕にひとつ。完治してはいるがまだまだ痛む。傷の入り方からして、どなたかの恨みを買って斬りつけられ、それを腕でかばい、刃物を奪って、そして──」


せ!!」



 坂本が今までにない大声で叫び、だっ、と蒼に向かって走り出した。


 ほとんど同時に、ひゅう、という口笛の音がする。



「その目、一生見えないようにしてやる!」



 坂本が怒鳴り、蒼に飛びかかる。



「っ……!」



 蒼は押し倒され、勢いよく床に頭を打った。


 直後、ばさばさっと強い翼の音がしたかと思うと、坂本の叫びが響き渡る。



「ぎゃああああ! なんだ? よせっ!」



 坂本がのけぞり、蒼の上からよたよた離れる。蒼はどうにか体を起こし、坂本を見た。



「なに……鳥?」



 坂本の頭に大きな鳥が取り付き、目をえぐり出そうとくちばしで攻撃を続けているのだ。



「鷹だ。名前は、ハヤテという」



 栞の君の声がして、そっと肩を支えられる。


 見上げると、そこに栞の君がいた。相変わらず落ち着き払った表情で、自分が倒れたことも、目の前でひとが鷹に襲われていることも、大して気にしてはいないようだ。



「栞の君。このままでは、坂本さまが……」



 蒼がおずおずと言うと、栞の君は面白そうに蒼を見下ろす。



「あいつはあなたの目を潰そうとした。目を取られても仕方ないと思うが」


「まさか……! 私の目はこうして無事です。ですからどうか、そんな残酷なことをなさらないでください。あなたは、こんなことで血に汚れていい方ではありません!」



 蒼は必死に訴える。この美しいひとが汚れるのは嫌だし、美しい鷹が汚れるのも嫌だ。栞の君は蒼が知る限りで一番優しく、一番美しいひとだから。



「……そう」



 栞の君はふと微笑むと、再び鋭い口笛を吹く。鷹は素早く反応し、坂本の頭を蹴って飛び立った。そのまま芝居小屋内を旋回すると、吸いこまれるように栞の君の肩にとまる。


 一方の坂本はというと、頭からたらたらと血をこぼして立ち上がろうとしている。


 その背後に、坂本が連れてきたやくざ者たちが近づいてきた。彼らは、先ほどとは打って変わって神妙な顔だ。



「おま、お前ら、あいつを! あいつらを、殺せ……!」



 坂本は叫ぶが、やくざ者たちはなぜか坂本を挟み込んで話を始める。



「それはちょいと置いといて、話をしようじゃないですか、坂本さん」


「あんた、その腕の傷はどこでついた? 最近ウチの親分の娘さんが、にんじよう沙汰で顔にひどい傷を作ってなあ。相手の名前はけして言わねえって言うんだが……街のもんから、逃げていく男の両腕に怪我があった、ってぇ話は聞いてんだ」



 坂本はぎょっとした様子で、やくざ者二人を見比べる。



「そんな話は知りませんよ。僕は浅草が拠点だ、こまごめには寄りついてもいない!」


「ほうほう、駒込ねえ。娘さんが住んでるのは駒込なんですよ。よくご存じで」



 やくざ者に震え上がるような殺気に満ちた声を出され、坂本はぶるりと震え上がった。さっきまで坂本の手下のようにふるまっていたやくざ者たちだが、所詮坂本とは金だけの関係だったのだろう。坂本が親分の娘に手を出したとなれば、やくざ者たちは坂本をただでは済ますまい。



「あ、あ、あ……」



 もはやまともに喋ることすらできなくなった坂本を、やくざ者のひとりが引っ立てていく。残ったひとりは、栞の君の前に立って深く頭を下げた。



「どこの紳士か存じ上げませんが、誠に失礼しやした。坂本はうちの身内ってほどでもない、酒癖のわりぃなりきんですが……今回のことは後ほど、よぉく言って聞かせますんで」



 栞の君はやくざ者にも一切動じず、穏やかに笑って内ポケットから名刺を取り出す。



「頼んだよ。わたしはこういう者だ。土地は後日正式にわたしが買い取る」


「はい。はっ……これはこれは……」



 名刺を見るなりやくざ者の顔は神妙になり、そのあとは米つきバッタみたいに頭を下げ続けながら去って行った。そこにはどんな名前が書いてあったのだろう。のぞき見るのも無礼だろうから、蒼は好奇心を抑えて、栞の君をじっと見つめて待っている。


 栞の君はそんな彼女を見下ろすと、優しく囁いた。



「蒼。言った通りだろう? あなたの目のおかげで、すべてが上手くいった」


「まさか! それもこれも、栞の君のおかげです……!」



 蒼はびっくりして言い、懸命に首を横に振る。栞の君は嬉しそうに目を細めた。



「その呼び名はあまりにもくすぐったいな。わたしの本名はじようさきそういちという」


「城ヶ崎、宗一さま」



 口の中で繰り返すと、栞の君こと宗一は、ゆっくりとうなずく。



「ああ。見ての通り病がちで、有能な住み込み看護婦を探している男だ」



 いきなりなんの話だろうか、と蒼が思っていると、宗一は面白そうに破顔した。



「わからなかったかい? 縁談がおじゃんになったあなたに、わたしの看護をお願いしたいのだ」


「え……私が、城ヶ崎さまを、住み込みで看護するのですか!?」



 あつにとられて大きな声を出してしまう。はっとしてうつむこうとしたが、宗一はそれを許さなかった。蒼の手を丁寧に握りしめ、顔をのぞきこんでくる。



「駄目かね? わたしの不調をひとめで見抜いたのはあなただけだ。あなたには看護の才能がある。これを今までの不義理の埋め合わせと言ってはなんだが、衣食住で苦労はさせないし、暇な時間はうちで好きな本を読めばいい」



 美しい顔を至近距離で見てしまい、蒼はかあっと体の芯が熱くなるのを感じる。


 宗一の側に居られるのは嬉しい。勉強を続けられるのも嬉しい。だが、何もかもがあまりにも急だ。自分に看護の才能がある自信がない。



「本気でおっしゃっておられるのですか……? 私はどこの馬の骨ともわかりませんし、このように、見るからにみっともない女です」



 しどろもどろで言いつのると、宗一は少々皮肉げに片方の眉を上げた。



「わたしの目には、あなたの美しさは充分に見えている。あなたはうそきなのかな?」


「そんな、噓のつもりはまったくございません!」


「そうか。ならばただの意地悪か? わたしは見ての通りの病人だ。早急に看護をしてほしいのに、『みっともないから』なんて理由で断るのは非情じゃないか」


「それは……」



 蒼は言い返そうとして、ふと黙りこんだ。


 ひょっとしたら栞の君は、元から看護婦候補として自分に支援をしていたのではないか。身の回りの世話をさせるために知識をつけさせ、蒼が悪人かどうかを判断し、合格だったから迎えに来てくれたのではないか。そのために手品団の土地を買い直してくれるのは驚きだが、お金持ちの感覚はそういうものなのかもしれない。


 蒼が神妙な顔で考えこんでいると、宗一と肩のハヤテが一緒に首をかしげる。


 その様子がちょっとわいくて、蒼は思わず表情を緩めてしまった。


 緩んだついでに体の力も抜けて、芝居小屋の床に座り直す。



「承知いたしました。城ヶ崎さまのおっしゃる通りです。こんなにして頂いたのですから、私は一生あなたに従います。どんなことでも致しますので、その代わり、どうか、手品団にも多少のご支援をいただけましたら……」



 蒼が額を床にすりつけて言うと、周囲の手品団の面々が、ほう、とあんの息を吐く。


 宗一はそんな蒼を見下ろして、どんな顔をしたのだろう。



「……君というひとは」



 という小さなつぶやきだけが落ちてきた。蒼はまだ頭を上げず、客席の畳に額をすりつけながら続ける。



「私は納屋でも倉庫でも、布団を敷く場所だけお貸しくだされば大丈夫です。食事もあまりとりません。ですからどうか、どうか、恩人への孝行をさせてくださいませ」



 蒼の言葉には少しも噓が感じられなかった。


 そこにあったのは、ただひたすらの献身だった。


 最初はやれやれと胸をなで下ろしていただけだった手品団の面々も、そんな蒼を見ていると段々と決まりの悪い顔になる。団長の奥さんと団長は手を取り合ってほろほろと涙をこぼし、七緒も忌々しそうに鼻を鳴らしながら目を潤ませている。


 鼻をすすり上げる音が満ちた空間に、やがて宗一の美声が響く。



「うちに、あなたを泊めるほど立派な納屋はないな。蒼、どうか、顔を上げて」



 言われるままに、蒼はおそるおそる顔を上げる。ちょうど高窓から光が落ちて、宗一の輪郭がぼんやりと光っているのが見えた。


 ──百日紅、と、蒼は思う。遠い過去の記憶。


 百日紅の根元で誰かを見上げたときを思い出す。自分はうずくまり、相手は困ったような目で自分を見下ろし、手を差し伸べてくれるのだ。


 宗一もまた、蒼に手を伸べて立たせてくれる。


 彼は立ち上がった蒼を見つめて、はっきりと言う。



「気が変わった。あなたは、わたしの妻になりたまえ」


「はい……?」



 蒼はとっさに何を言われているのかわからず、きょとんとして首をかしげた。


 宗一は、蒼の手をぎゅっと握り直して、いたずらっぽく微笑む。



「わたしが死ぬまでのわずかな間に、あなたに幸福というものを教えてあげる。あなたには、それが必要だ」



 不思議だ。このひとは何を言っているのだろう。


 言葉は耳に入っているのだが、脳は理解を拒否している。だって、こんな素晴らしいひとが、自分を嫁にとるとは思えない。きっと何かの聞き間違い。もしくは夢だ。


 夢。夢。遠い夢。


 蒼は何度も、何度も自分に言い聞かせた。


 それでも、心がざわめくのは止められない。


 風が吹く。蒼の心の中に風が吹く。


 縮こまっていたものが緩み、心がほんのり熱を持つ。


 自分が、自分の人生が、どうしようもなく変わってしまう。


 そんな予感と共に、蒼はただただ宗一の顔を見上げて、立ちつくしていたのだった。


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