第8話

 聞くだけで震え上がるような美声は、かつてこの小屋の舞台上で聞いたもの。『サトリ』の蒼が、唯一真意を見抜けなかった男の声だ。


 男は客席を突っ切って大股で歩きながら、よく響く声で続ける。



「この辺一帯の土地は、わたしが買い戻す」


「何……?」



 坂本が愕然とつぶやいた。


 男はとっとと坂本の前を素通りし、蒼の目の前まで来て、やっと止まった。


 男は相変わらず何も読めない目をしていたけれど、以前にも増して美しく見える。長身の蒼より頭半分以上高いその姿は、洋装をまとうと匂い立つような華やかさを醸し出す。近くに立つとはっきりわかった。このひとは蒼などには手の届かないひとだ。最高級の舶来ものを当然のように身にまとい、あらゆる所作が自信たっぷり。蒼が出会ったこともない偉いひとたちとしか付き合わないのだろう。生きる世界が違うひと。


 そんな彼の鋭い瞳は、蒼を見つめるとふわりとけた。



「ただし、わたしの蒼い鳥が、そう願うなら」


「……!」



 蒼は息を吞みこんで、その場に凍りつく。


 蒼い鳥。最後の栞に書かれていた言葉。


 それを知っているのは、蒼と、もうひとり。栞の君だけだ。



「あなた……あなた、は」



 絞り出した声は震えていた。声だけではない。全身も、抑えようもなく震えた。


 男は──栞の君は、そんな蒼の背に手を回して支えてくれる。紳士的な所作だった。



「大丈夫かい? 震えているね」


「大丈夫、です──すみません、急でしたから……。あの、申し訳ございません。私、こんなにみっともなくて」



 いざ栞の君に己の姿をさらしていると思うと、居てもたっても居られない。しかし、栞の君は少しも動じなかった。



「何がみっともない? 謝るべきはわたしのほうだ。縁あって君を支援していたが、体調のこともあってなかなか会えなかった。長いことすまなかったね。寂しかったかい?」


「寂しく、など……」



 ない、と答えようとしたのに、蒼の目には一気に涙が盛り上がる。


 問われたせいで、胸に封じ込めていたものがせきを切ってあふれたのだ。


 寂しい、悲しい、悔しい、そして、嬉しい……あなたに会えて、あなたと話せて、びっくりするほど嬉しい。この場で跳び上がって、周り中に触れ回りたいくらいだ。


 栞の君は、本当にこの世にいらっしゃる殿方だったの。思っていたようなご老人ではなくて、途方もなく美しい方なの。私に、こんな私に、会いに来てくださったの。



「可哀想に。もうこんな思いはしなくていい」



 栞の君は囁き、そっと蒼を抱きしめる。蒼の体はびくりと震えたが、抵抗する暇はなかった。蒼を抱く腕にはしっかりとした力があって、けれど少しもしつけではなくて、ただひたすらに父のような、兄のような、穏やかな熱をくれる。



「ひっく……」



 もったいない、と言って離れるべきなのはわかっているのに、体が思うように動かない。こぼれる涙すら止められず、蒼はせめてえつをかみ殺す。


 そんな二人にしびれを切らしたのだろう、坂本が後ろから蒼の肩をつかんで引き寄せた。よろめく蒼の肩に指をめりこませ、唾を飛ばしてまくしたてる。



「貴様、黙って聞いていれば無礼千万! 蒼も土地も、お前なんぞには渡さんぞ! 蒼とは今日これから結婚するし、土地はすでに僕のものだ。僕が好きに値段をつける!」


「今日これからならば間に合ってよかった。この結婚は取りやめです。さ、どうぞ」



 栞の君はあくまで穏やかに言い返し、内ポケットから小切手帳を取り出した。



「これは、どういうつもりだ……?」



 顔を引きつらせる坂本に、栞の君は平然と言い放つ。



「土地の代金です。お好きな値段を書いて結構。万年筆も必要ですか?」



 あまりの堂々とした栞の君の振る舞いに、団員達はざわめき始めた。


 ここは浅草、今は芸能の中心はぎんに移ったとはいえ、歓楽街には違いない。周辺の土地をまるごと買おうとすれば半端な値段ではないはずだ。それを言い値で買うようなことを言う、不思議なほど品がいい男。明らかに坂本とは格が違う。


 坂本は顔色を赤黒く変え、小切手帳を叩き落とした。



「貴様……舐めた真似をしてんじゃねぇぞ! こんなハッタリ打ってまで蒼が欲しいのか? そりゃあ蒼は滅多にいねぇ美形だが、俺が先に唾をつけてんだ!」



 余裕がなくなった坂本は、もはや口調を取り繕うこともできないようだ。



「ふむ。男の嫉妬は醜いな」



 栞の君は困ったように笑って、自分の顎をさする。


 できない生徒を見るような態度に、坂本はさらにいきり立った。



「おい! ちょいとこの紳士に、浅草の流儀を教え込んでやれ!」



 口から泡を噴かんばかりの勢いで怒鳴ると、やくざ者たちが下卑た笑いで前に出る。ひとりが大きく腕を振りかぶると、栞の君に殴りかかった。



「おらぁ!」



 ひら、と、トンビコートの裾が翻り、やくざ者は大いによろめく。


 ──避けられた、と、やくざ者にわかったのかどうか。


 蒼には見えた。栞の君はトンビコートをひらめかせるのと同時に、流れるように身を避けたのだ。さらに、素早くステッキをやくざ者の脇腹に叩きこむ。



「ぐうぅ……!」



 急所を強く突かれ、やくざ者はぐるんと白目をむいた。



「てめぇ!」



 仲間がやられたことで、もうひとりのやくざ者も血相を変える。両手を広げ、栞の君に組み付こうとした。やくざ者と栞の君、身長はほぼ同じくらい。やくざ者は自分を大きく見せようと胸を張っているが、栞の君は不思議なくらい脱力している。


 それなのに、視線は鋭く相手をいていた。


 直後、やくざ者が思いきり床に叩き付けられる。栞の君は体を沈めて相手の攻撃をかわし、そのまま投げ飛ばしたのだ。倒れたやくざ者の喉もとには、きれいに栞の君のかかとがめりこむ。



「けほっ、げはっ、ごふっ!」



 まともに呼吸が出来なくなったやくざ者が、のたうちながら泡を噴く。足下で起きていることは醜く騒がしいのに、栞の君のあまりにも無駄のない動きは舞踏のようだ。信じられない光景に、団員達はみっともなく口を開けて見入っている。



「…………!」



 蒼も圧倒されてぼうっとしていたが、不意に緊張で総毛立った。



「栞の君……!」


「ま、待て、蒼! どこへ行くんだ!?」



 慌てる坂本の手を振り切って、蒼は一目散に栞の君に駆け寄った。



「ご無事ですか、栞の君。ご無理をなさったのでは? お顔色が悪いです……!」



 蒼は彼の名を呼び、その長身を支えようとする。見下ろしてくる栞の君の顔色は、怖いくらいに真っ白だ。



「栞の君……わたしのこと、かい?」



 不調にかすれる声で囁き、栞の君は蒼の肩に腕を回した。その腕をしっかりとつかみ、蒼は栞の君を見上げる。



「はい。あの、私にすがってください。すぐにお医者を呼びます」


「医者か……間に合うかな」



 栞の君がつぶやいたかと思うと、蒼の肩にかかる重みがぐんと増える。


 蒼はとっさに踏ん張った。重い……けれど、この身長の男性にしては、軽いほうだ。やはりこの方は体が悪い。蒼は肩にかかった重みをどうにか支え、できる限りゆっくり、栞の君を床に寝かせた。



「や、やっぱりそいつもやられてたんじゃねえか! 驚かせやがって……」



 坂本はどこか嬉しそうだが、栞の君はやくざ者にやられたわけではない。蒼にはよくわかっている。このひとはもともと体が悪かったのだ。それなのに、立ち回りをしてくれた。おそらくは、蒼を助けるために──。



「待っていらしてください! お医者さま、間に合わせます!」



 蒼はぐっと涙をこらえて立ち上がろうとするが、栞の君の指が袖を摑んでくる。


 慌てて座り直すと、彼は真っ白な唇で囁いた。



「……内ポケット」


「内ポケット? ひょっとして……お薬があるのでしょうか? そうですね?」



 蒼が言われた通りに栞の君の内ポケットを探ると、濃い茶色のガラス瓶が出てきた。目の前にかざして見せると、栞の君は薄く目を開いてうなずいてくれる。もはや声を発するのも難しいのか。一刻の猶予もない状況とみて、蒼は大急ぎで小瓶を開ける。



「一錠? 二錠です? 二錠ですね?」



 必死に確認し、薄い唇に薬をねじこんだ。指先に触れた栞の君の唇は、ひどく乾いている。水だ。水がいる。蒼は顔を上げ、精一杯の声を上げる。



「お水を! 誰か、どうぞ、お水をください!」



 団員達は戸惑ったように視線を投げ合うが、誰一人動かない。いつも一緒の楽屋を使っていた女たちも、同じ台所で食事をしていた男たちも。もどかしいが、そんなものだろうとも思う。彼らとは結局、家族になることができなかった。


 自分が行くしかない、と蒼が立ち上がったとき、少年の声が響いた。



「蒼、お水!」



 息を切らせてみんなの間から飛び出してきたのは、ハチクマだ。



「ハチクマ……! ありがとう!」



 蒼は心から礼を言い、ハチクマから水入りのわんを受け取る。漆のはげかけた椀を栞の君の唇に押しつけると、透明な水が乾いた唇を湿していった。あふれた水が唇の横からこぼれ落ち、青白い肌を伝ってぱりっとした白いシャツの襟をらすのが見える。


 飲んで、と思う。飲み込むという動作は案外力を使う。どうにか飲んでほしい。


 蒼はひたすら、祈るような気持ちで見守る。永遠とも思える数秒間が流れていく。


 やがて、こくりと喉が鳴った。


 蒼はほうっと息を吐いて、なおも栞の君の顔色を観察する。


 その視界がふっと暗くなった。ちらと見上げれば、すぐ傍らに坂本が立っている。


 坂本はさっきよりは落ち着いた様子だが、顔にはまだ醜い怒りが残っているようだ。



「蒼。さっきの妙に手慣れた立ち回りを見たでしょう。そいつはろくな奴じゃありません。最近増えてきた詐欺師の類いに違いないですよ。早くこっちへいらっしゃい」



 坂本の手が差し伸べられる。坂本にしては優しげな態度だ。


 だが、その手を取る気にはまったくなれない。



「栞の君は……そんな方では、ありません」



 蒼は小さな声で、それでも坂本の目をしっかりと見て言う。途端に心臓がドキドキとうるさい音を立て始めた。


 今、自分は初めて、はっきりと坂本に反抗した。


 坂本もそれに気付いたのだろう、歯ぎしりせんばかりの勢いで聞き返してくる。



「なんですって? じゃあどんな方だっていうんです。わかるっていうんなら言ってみなさい! あなたはサトリなんでしょう? その男の正体も見抜けるはずでしょうが!」


「それは、わかりません。わかりませんが……」



 わからないが、それでも、蒼は栞の君の側を離れることはできない。



「……蒼」



 そのとき、かすれた声が蒼の名を呼んだ。栞の君だ。


 蒼は慌てて栞の君を見た。まだ顔色は真っ白だ。蒼は必死に聞く。



「栞の君。お具合は」


「見なさい……蒼」


「見る……? あなたを、でしょうか? 申し訳ありません、あなたのことだけは、あなたの病だけは、私には、見えないのです……」



 蒼が泣きそうになって答えると、栞の君はうっすらと笑った。


 続いて深い息を吐くと、ゆるゆると栞の君の顔に血の気が戻ってくる。ふいごで窯に火が入るかのように、徐々に、徐々に、彼は生き返り始める。


 ほんの少しだけ力を取り戻した栞の君の声が、蒼に語りかけた。



「わたしではない。あの男を、見なさい」




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