第7話




 本を全部売られた日からおおよそひと月が過ぎ、秋はしんしんと深まった。


 蒼が送った手紙には返事のひとつも来ないまま、本日は蒼の嫁入りの日である。


 蒼の親代わりの手品団の面々は、朝からすっかり酔いどれていた。



「いやー、めでたい! 俺のおかげだぞぉ、蒼!」



 芝居小屋の畳敷きの客席に作られた宴席で、団長が安い杯を掲げて怒鳴る。


 飲んでいるのは団長と団員達ばかりで、蒼はさっきまで宴席の準備に奔走していた。そのあとやっとよそゆきに着替えたのだが、これも七緒からの借り物だ。『サトリ』で儲けているはずの団長も、本代まで持って行った坂本も、蒼が坂本家に嫁ぐときの着物を仕立ててやろうという気にはならなかったらしい。


 七緒は蒼を眺めてにやにや笑う。



「やっぱりあんたの背丈じゃあ、何を着てもみっともないね。とはいえ、いつものぼろで坂本さまのおうちに行くわけにもいかないものねえ」


「そのとおりです、姐さん。お着物を、本当にありがとうございました」



 蒼は微笑んで頭を下げたまま、着物の裾から出た自分のくるぶしをじっと見つめる。


 そんな蒼を尻目に、団員達は聞こえよがしに金の話ばかりしていた。



「坂本さま、うちの団を支援してくれるっていう話だが、ありゃあほんとかね?」


「そのために蒼が嫁に行くんだろう。小屋の修理ができるといいね。二階の床のきしみっぷりときたら、道具を取りに行くたびひやひやする。そういや蒼が出て行くんだから、またあそこは倉庫に使えるんだよね?」



 彼ら、彼女らが思うようになるといい、と、蒼は思う。


 自分が結婚することで恩人たちがいい目を見るなら、蒼はそれを支えに生きていく。


 両親はなく、親戚のもとからは逃げ、本は売られ、『栞の君』と会うことも断った今、蒼がすがるのは恩人への孝行しかないのだ。


 蒼が団長たちに酌をして回っていると、やがてハチクマが駆けこんできた。



「坂本さま、来たよ!」


「なんちゅー言葉遣いだ、ハチクマ! まあいい、そら、蒼、お出迎えだ!」



 団長は慌てて立ち上がってちようネクタイを直す。蒼も急いで団長の一歩後ろへ控えた。


 ほどなく、畳敷きの観客席に坂本が入ってくる。婚礼衣装というわけでもない、いつもの着物姿だ。左右に大柄な若者を従えている。



「坂本さま、お待ち申しておりました」



 蒼はなるべくいつもの調子で言い、おっとりと頭を下げた。坂本は団長の前まで来て足を止めると、なんともいえない笑みを浮かべて蒼の全身を眺め回す。



「蒼、待たせたようですみませんでしたね。ちょっと役所に寄ってきまして」


「おお、婚姻届ですか? 段取りがいいですねえ」



 団長は愛想笑いで手をむ。


 坂本は顔に笑みを張り付けたまま、懐から紙ペラを出して団長に見せつけた。



「婚姻届じゃありませんよ。こいつをごらんなさい。この小屋が建ってる土地を僕が買い取ったっていう証書です」


「は? この小屋を、坂本さまが? いやいやいや、なんのことやら……?」



 団長の笑顔が凍り、大きく頭が傾いていく。


 団員達もざわめき始める中、坂本は蛇のようなこうかつな目をして宣言した。



「正確にはこのへん一帯をまるごと買わせてもらいました。ここは元々借地でしょう? 土地が僕のものになれば、上物は全部取り壊さなきゃあいけない決まりです。この小屋の跡には最新式の活動写真館を作る予定ですよ。申し訳ないが、あなた方には今すぐ出て行ってもらいます」



 蒼はぽかんとして二人の会話を聞いていた。坂本がどうして手品団の芝居小屋を取り壊すのだろう。彼は、蒼さえ嫁げば、手品団に支援をすると言っていたはず。蒼は恩人の役に立てると思うからこそ、坂本のひどい仕打ちにも耐えてきたのだ。


 団長はたらたらと冷や汗を流しつつ、坂本ににじり寄る。



「やめてくださいよ、坂本さま。あなたは蒼にご執心で、蒼を嫁に寄こすなら手品団を支援するっておっしゃったじゃあないですか。何度も飲みながら腹を割って話しましたよねぇ?」


「飲みましたとも。あなたは何度も何度も、僕の金でうわばみみたいに飲んでいきましたよねぇ。で、そのときにあなたが書いてくれた念書がこれです」



 坂本は余裕たっぷりの笑みを浮かべ、団長に別の紙ペラをひらつかせた。坂本は、のたくる蛇みたいな文字を指さして言う。



「『大吉手品団は、ここを引っ越すことに同意する』とあるでしょう? 日付もあるしいんもある。あなたがこれを書いてくれたから、地主も安心して土地を売ってくれました」


「な、な、なな……」



 つきつけられた念書を読んで、団長の顔は真っ赤になって、真っ青になった。団長の奥さんが団長の腕にかじりつき、鬼の形相になって団長をにらみつける。



「あんた、ほんとにこんなもん書いたのかい!」


「いや、まったく、まったく覚えがない、こ、こんなものは無効だ……!」



 団長は必死に首を横に振るが、坂本は素早く念書を畳んでおつきの男に持たせた。



「無効だろうがなんだろうが、地主が売買に同意したんだから関係ありゃしませんよ。さ、とっとと荷物をまとめて出て行くんだな!」



 坂本が言い放つと、うろたえた団員たちから「話が違う」「公演はどうなるよ」「うちのケツ持ちが黙っちゃいないぜ!」などと声が上がる。


 カタギならばひるんでしまいそうなものだが、坂本は堂々としたものだ。あげく、おつきの男達が楽しそうに袖をまくって見せると、そこには立派な龍や桜の墨が入っている。その方面も味方につけているとなれば、団員たちは黙るしかない。



「──蒼さん」



 蒼はまだまだぽかんとしていたが、坂本にねばっこい声で呼ばれて我に返る。



「はい」



 震えて足下を見ていると、坂本が近づいてきて手首をつかんだ。


 青白い顔がぐい、と近づけられ、耳をめるようにして言葉が注がれる。



「たった今言って聞かせたとおりですよ。あなたとの結婚話は、団長に念書を書かせるためのダシでした。だけどね、結婚はにしないでおいてあげます」


「え……?」



 意外すぎる言葉に、蒼はとっさに坂本の顔を見た。その顔は欲でぎらついている。欲、欲、すべて欲だ。金も、土地も、女も、あらゆるものを手に入れて好き勝手振り回したい。なんならそのままめちゃくちゃにして、壊してしまいたい。そんな残酷な顔だった。


 このひとはこんな顔をしていたのか、と蒼はがくぜんとした。


 蒼は『サトリ』なのに、坂本の顔をはっきり見たのはこれが最初だ。結婚前に気味悪がられるのが嫌すぎて、なるべくうつむいていたせいだ。そのせいで、このひとの本性に気付けなかった。


 坂本は狡猾に目を細め、蒼に告げる。



「あなたはみっともない女だが、サトリの見世物自体は悪くありませんよ。今度は僕の活動写真館の前座として同じことをやってくださいね。上手くできれば、夜もそれなりにかわいがってあげましょう」



 なんと答えたらよかったのだろう。蒼は呼吸も忘れて固まっていた。背筋を蛇に這われたような気持ちで、もはやこわばる自分の体を抱きしめることしかできない。


 一方で、団員たちの間には不穏な空気が流れ始める。



「ってことは、蒼だけ助かって、俺たちは失業か?」


「蒼ッ……! あたしたちが拾ってやった恩を忘れたのかい!?」



 呪うように叫んだのは、団長の奥さんだ。蒼は、ひっと息を吞む。


 恩を忘れてなんかいない。自分だけ上手くやろうなんて思った試しは、今までで一度もなかった。自分は団長のために、手品団のために、結婚するつもりだったのだ。


 団員は蒼だけが助かって、と言うが、蒼は全然助かっていない。こんな欲まみれの男につかまって働かされて、団員達には恨まれて。せめて団員に恩返しできればと思っていたのに、それすらも反故にされてしまった。


 自分がいけないのだろうか。坂本の悪意に気付けなかった自分がいけないのだろうか。うつむいていた自分がいけないのだろうか。でも、うつむいていなければ気味が悪いと言われてしまう。どうしたらよかったのだろうか。わからない。


 もうだめだ。もう、どうしようもない。これ以上は耐えられない。


 頭の中がぐちゃぐちゃになって、蒼の世界がゆがむ。


 もはや微笑む余裕もなくて、真っ白な頰に、ぼろり、と涙がこぼれた。


 ──そのとき。


 こんこん、と、硬質な音がする。


 さして大きな音ではなかったが、客のいない芝居小屋にはよく響いた。


 蒼はおそるおそる音のほうを見た。芝居小屋の暖簾のれんの側に、ひとりの男がいる。


 西洋人か、と思った者も多かっただろう。それだけ彼の洋装は完璧だった。着姿の美しい漆黒のスーツに女物の帯を使ったような花柄のベスト、広い肩にはトンビコートをひらりとかけて、片手には西洋風のつえを持っている。


 おそらくはその杖でもって、柱をこんこんと叩いてみせたのだ。



「あなたは……」



 頰に涙をたれ流しながらも、蒼はつぶやく。


 鋭い瞳がすっと蒼のもとへ導かれ、男は声をかけてくれた。



「お久しぶりだね、『サトリ』のお嬢さん」



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