第6話
「坂本さまっ……!」
蒼は必死に膝を突き、そのまま地面に額を擦り付けた。土の匂いがして、ふわりと脳裏に百日紅の記憶がよぎる。美しいものはすべて記憶の
「申し訳ございません、坂本さま。すべて、坂本さまのよいように……」
「当然です。あなたは本当に未熟で、愚かで、不貞な
坂本の罵声が頭上から降りかかってくる。蒼の唇はわずかに震えた。
二度と本を読まない。この後の人生、ずっと、本に触れずに過ごすのか。栞の君の手を放すのか。そう思うと真っ暗闇に放りこまれたようで、心細さで息が止まりそうになる。
「二度と……二度、と……」
それでも言わねば、と、思う。旦那さまは絶対。だから、言える。言えるはず。
震える体を抱いて、震えを止めて。笑って、口を開いて、舌を動かして。
早く。早く。早く──。
「坂本の旦那」
そのとき、軽く息を切らしたハチクマの声がした。ひとっ走りしてきたハチクマが戻ってきたのだ。板塀の向こうから、ひょいと古書店の店主も顔を出す。
「どうも、
「ああ、わざわざありがとうございます。この本を処分したくてね」
坂本は愛想のいい顔で古書店の店主に向き直った。
「ははあ。こいつはこちらのお嬢さんのご本じゃないですか? 蒼さんのご本は、ご本人以外から買い取っちゃいけないってことになってるんですが」
店主は心配そうに蒼に視線を向けてくる。そんな目をされれば、胸の奥に希望が
でも、できない。蒼にできるのは、笑って小首をかしげて言うこと。
「……私が、処分したいのです。この方と、結婚するので……」
「おやおや、そういうことなら、ええ。いいお値段をつけさせていただきますよ。ご祝儀代わりだ!」
店主はぱっと笑顔になってうなずいた。
それからはあれよあれよという間に話が進んで、虫干ししていた本すべて、さらに蒼の部屋に残っていたぶんもすべてが、古書店の大八車に積まれてしまう。黙っていることしかできない蒼の目の前で、栞の君の栞もすべてたき火にくべられた。
燃え残った栞の端が、花びらのようにひらりひらりと炎に舞う。
坂本は蒼の眼前で栞の燃えかすを踏みにじると、蒼の手から本の代金を奪い取った。
「これは婚礼準備の足しにしてあげましょう。財産のひとつもないあなただ、ちょうどよかったじゃないですか」
恩着せがましく言い、坂本は芝居小屋を去って行く。蒼は返事をすることもできず、ただただ栞の燃えかすをぼんやり眺めていた。
気付けば日が傾き、夜が来た。
団長夫婦はまだ帰らない。どこぞで飲んでいるのかもしれない。蒼はやっとのろのろと動き出し、洗濯物を取り込んで、自分の部屋に戻ってみた。
そこには、衣装櫃以外には何もなかった。
日に焼けた畳の真ん中にぐったりと倒れこみ、闇を見つめる。何もない闇は、自分のこれからの生活を暗示しているようだった。他愛のない手紙で不貞と言われては、夫以外の誰とも交流はできない。この闇に封じられて、坂本のもとで体を縮めて生きていく他はない。本という逃げ場すら失って、うつむいたまま生き続けるのだ……。
眼球だけをどうにか動かして見ると、襖の隙間に泥に汚れた顔がある。
「ハチクマ」
蒼が囁く。ハチクマは静かに襖を開き、近くまでにじり寄ってきた。
「これ」
つっけんどんに言って突き出してきたのは、本だ。
「え……?」
まさか、と思って体を起こした。何度見返してみても、本だ。
蒼は本を受け取りながらも、大層うろたえてハチクマと本を見比べた。
「まさかこれ、あなたが隠しておいてくれたの? 大丈夫なの、そんなことをして。坂本さまに知れたら大変なことになるわ」
「違う。今、本の旦那のお使いのひとが来たんだ。こいつを持って」
ハチクマは首を横に振り、小声で言う。
どくん、と心臓が音を立てた気がした。
栞の君の使者が、来てくれた。新しい本を、持ってきてくれた。
夢ではないのだろうか。あまりにも都合がいい話だ。蒼がどん底に落ちた瞬間を見ているかのように、栞の君は手を差し伸べてくれる。
でも、でも、駄目だ、駄目。
蒼はふわふわとした気持ちを振り捨てて、震える手で本を押し返す。
「ごめんなさいね、ハチクマ。受け取れないわ。坂本さまが怒るもの。栞の君にご迷惑がかかるかもしれない。使者の方がまだいらっしゃるなら、引き取ってもらって……」
「もう帰ったよ」
「そう。じゃあ、送り返すしかないわ」
蒼はうつむき、本を見つめる。ハチクマは、見つめてつぶやいた。
「……あんた、本と一緒だと、美人だね」
「え?」
蒼はびっくりしてハチクマを見たが、彼はもう階段に消えている。
「中に、栞があったよ」
最後にハチクマの声だけが、階段から聞こえた。
この本に栞が挟まっている。そう聞いてしまうと居てもたっても居られなくなり、蒼はおそるおそる本に手を伸ばした。栞を見たら、すぐに送り返す。本の中身を読んだりしない。だから、せめて、ひと目だけ。最後の栞を、見させてください。
祈るような気持ちで硬い表紙をめくると、はっとするような紅色の見返し。そこに、真っ白な短冊が挟まっている。見慣れた知的な筆跡で書かれていたのは、一行。
『私の蒼い鳥、その籠から出たいかい?』
「ああ……」
深い深いため息と共に、うめくような声が出た。
どうして、と思う。どうしてそんなにも、欲しい言葉をくれるのだ。心の表面を固めていたものに、ぴきりと大きなヒビが入った気がする。駄目なのに、絶対にいけないのに、心のヒビから熱い気持ちがにじみ出す。
私だってあなたに会いたい。あなたに会って、心からお礼を言いたい。
本の話をしたい。あなたの顔を見たい。栞の話をしたい。
あなたのためなら、なんでもしたい。
会いたい。会いたい。会いたい。
でも、会えない。
──もう、遅い。
蒼はぱたんと本を閉じると、気力体力を振り絞って立ち上がる。
衣装櫃を窓辺に引きずってくると、窓を押し開けて空を見上げた。幸い、今夜は大きな月が出ている。月明かりでどうにか文字が書けそうだ。蒼はなけなしの給金で買った紙と
蒼から支援者への接触方法はただひとつ。使者に手紙を出すことのみである。
この手紙に返事が来る頃には、蒼は坂本のもとへ嫁入りしているかもしれない。それでも、これだけは伝えておかねばならなかった。
『お手紙と本をありがとうございました。お会いしたいのはやまやまですが……』
蒼は精一杯の丁寧さで文字を
結婚すること。坂本のこと。結婚相手が勉強を好まないため、本は売らざるを得ないし、二度と手紙も書けないこと。本が教えてくれた美しい世界と栞の君が、いかに自分を救ってくれたかということ。栞の君の今までの親切に本当に感謝していること。これからは本のことは忘れ、懸命に生きていくつもりであること。けして会うことはできないこと。
すべてを書き終えると、蒼は衣装櫃の奥に手紙と本を隠した。
明日の朝一番にハチクマに小遣いをやり、本と手紙を郵便局まで届けてもらおう。そう思うと緊張の糸がふっつり切れ、蒼はみるみる眠りの国へ引きずり込まれていった。
眠りの国はひどく明るく、誰も彼もが楽しそうに声をあげて笑っている。
なんて素敵なんだろう、と周囲を見渡せば、辺りを照らしているのは炎であった。
かわいらしい洋館が燃えている。これはいつもの夢なのだ。ただの夢なのか、過去の記憶なのかわからない、不思議な夢。
洋館は燃えている。美しい金属の盥も燃えている。たくさんの本も、燃えている。
『おーい、蒼』
『蒼ちゃぁん』
ゆらめく炎の向こうから、優しい両親らしきひとの声がした。
『お父さま、お母さま、蒼はここです!』
今度こそ二人を助けられないものかと、蒼は炎に向かって呼びかける。
不思議と熱くない炎に着物を焦がされつつ、蒼は懸命に手を伸ばした。
『どうぞ、この手につかまってください。蒼がお助けいたします!』
叫んだ直後、炎の中から突き出た誰かの手が、蒼の手を摑みとる。
蒼ははっとして、その手を強く握り返した。骨張っていて指の長い、大きな手だ。
直感的に、父ではない、と思った。父ではないその人の手を、それでも蒼は力一杯引き上げようとする。が、蒼の力ではびくともしない。
冷たい手はしっかりと蒼の手を握りしめたまま、切実な美声で囁く。
『わたしは無力ですが、あなたをお助けしたいのです』
蒼はびっくりして目を
私を助ける?
なぜ?
あなたは、誰?
問いは声にならないまま、蒼の意識は夢の奥深くに落ちていった。
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