第5話
◇
翌日は手品団の休業日。団員たちは、なけなしの給金をばらまくために街に出た。
蒼はひとり、芝居小屋の家事を押しつけられて留守番である。
ならば落ちこんでいるのか、というと、そうでもない。
「いい天気」
蒼は劇場裏の物干し場で、干し終えた衣装を満足そうに見上げていた。
もとより外に出るのは気が引ける蒼だ。ひとりで雑用に打ち込めるのは
「さあ、本を読みましょう」
本を並べたむしろの端に座りこみ、蒼はやっとのことで
洗濯物が落とす淡い影の下で本を開くと、明るさもちょうどよい。蒼はそっと目を細め、本に挟まれた栞に触れる。栞に書かれた文字は、以下のよう。
『前回の感想は素晴らしかった。あなたの知性は着実に育っている。この本はわたしも気に入っている。あなたも気に入ってくだされば何よりだ。困ったときには本を金に換えるのも構わない。だが一読はするように。知識はあなたを守る
ぶっきらぼうなのに、優しさが隠せていない文章だ。気難しくも優しい篤志家の老人の文章ではないか、と蒼は思う。支援先を探しているうちに、偶然手品団の公演で蒼を見つけてくれたのかもしれない。そんなことを思いながら栞を読む蒼は、いつになく柔らかな笑みを浮かべていた。
蒼はしばらくにこにことしていたが、ふと視線を感じて顔を上げた。
「……ハチクマ?」
声をかければ、板塀の切れ目から顔を出していた子どもがびくりと震える。彼は一度隠れてから、もう一度おそるおそる顔を出す。
「どうしたの、ハチクマ。また顔が汚れてる。拭いてあげるから、おいでなさいな」
蒼が微笑んで手招きすると、ハチクマは小走りで駆けてきた。歳は十二だというけれど、見た目は十歳やそこらに見える、小柄で瘦せぎすな少年だ。目ばかりが大きく丸っこく、いつも少しびっくりしたような顔をしている。
彼も蒼と同様、団長に拾われてきた子どもだ。軽業師として仕込まれている。元からとんでもなく身が軽くて目端が利くが、そのせいで無茶をさせられがちだ。手品団で唯一の年下でもあることから、蒼は彼を弟のように思っていた。
「今日は
蒼が姉のように手ぬぐいで顔を拭いてやると、ハチクマはぼそりと言った。
「あおい。坂本のおっさん」
「え」
蒼の手が一瞬止まる。婚約者の坂本が、どうしたというのだろう。
蒼がハチクマに問う前に、板塀の向こうから和装の男がやってきた。
「やあ、蒼さん」
「坂本さま」
蒼は慌てて立ち上がり、またまた深く頭を下げる。そんな蒼を、坂本は見下ろした。
「お久しぶりです。いやしかし、相変わらず大きくてみっともないですねえ」
「申し訳ございません、背丈だけは、どうにもなりませんで……」
ずきり、ずきりと心が痛み、蒼はにっこりと笑みを浮かべる。
出会い頭に高慢な高い声で蒼を侮辱してくるこの男が、団長が見つけてきた蒼の婚約者だ。坂本の歳は三十半ば。青白い顔は下膨れで、全体的にぶよぶよとした体をしている。腕組みして立つのと袖を直すのが癖で、垂れ下がった目にはあまり生気がなかった。
坂本は唇の端を引き上げて笑い、諭すような猫なで声を出す。
「本当にそう思っているんでしょうか? あなたはいつもどこか傲慢でいけない」
「そう見えてしまうなら、私のどこかに傲慢さがあるのでしょう。改めます」
蒼は精一杯の誠意を込めて答えた。少々癖はあるが、坂本は自分の旦那さまになるひとなのだ。どうか少しでも自分を気に入ってもらいたい。蒼は心からそう思っている。
それなのに、坂本は急に怒鳴った。
「またそういう反抗的なことを言う!」
「っ……ど、どこが反抗的でしたでしょうか」
蒼が消え入りそうな声で囁くと、坂本はぐいぐいと近づいてくる。
「傲慢に見える、っていうところですよ。見える見えないの話じゃない、僕が傲慢だと言ったら、あなたは傲慢なんです。そういう気持ちでいなけりゃあならない!」
「は、はい、申し訳ありませんでした」
蒼は必死に頭を下げたが、坂本はそれでも気が済まなかったらしい。蒼が手にしていた本をもぎ取ると、イライラと鼻を鳴らす。
「大体何です、この本は。こんな本を読んでいるから、そんなに偉そうになってしまうんです!」
「それは……そう、でしょうか」
蒼の声は震え、正しい答えが喉に詰まった。そのとおりです、と言わねばならないのはわかっていた。わかっていたが、蒼にとって栞の君からもらった本は宝物だ。
そんな態度にいらついたのか、坂本は荒々しく本の
「なんです、これは」
坂本の手が止まったかと思うと、彼は挟み込まれていた栞をつまみ出す。
蒼はぎょっとした。坂本が持っているのは、栞の君が書いてくれた短冊だ。
「本を贈ってくださった方からのお手紙です。申し訳ございません、それは、それだけは返してください……私の大切なものなのです」
蒼は必死に訴えかけた。何度頭を下げても構わない。栞だけは返してもらわなくては。そう思ったのに、坂本は手の中の栞をぐしゃりと握りつぶす。
そうして蒼の薄い肩をつかむと、鬼の形相で怒鳴りつける。
「あなた……不貞を働きましたね!?」
「不貞? こんな私が、不貞ですか?」
驚きすぎて反論もできない蒼を、坂本は責め立てる。
「この筆跡は明らかに男じゃあないですか! しかも、あなたを褒めちぎる文ばかり。明らかに下心がある。なんなら、とうに通じた女に宛てるような内容です!」
「めっそうもありません……これを書いた方とは、お会いしたこともないのです。実際にお会いしたなら、蒼のみっともなさも、気持ち悪さもご存じのはず。そうでないから褒めてくださるのです。きっとご年配の篤志家の方ですわ」
「ほら、年配だと知っているじゃないですか! やはり会ったことがあるんだろう!」
怒鳴り続けているうちに、坂本の顔はどす黒く色がついていく。
尋常ではない様子に寒気を覚え、蒼は必死に首を横に振った。
「違います。本当に違うんです。私は何も知りません。信じてくださいませ、坂本さま。こんな蒼をお嫁にもらってくださる方は、ご親切な坂本さましかいらっしゃいません」
「は! 口だけ
坂本は振り向くと、今度はハチクマを怒鳴りつける。
「おい、ガキ! 古本屋を呼んでこい!」
「はい!」
ハチクマは跳び上がるようにして返事をすると、即座に駆け出した。
坂本は肩で息をしながら、じろりと蒼を見つめる。
「いいですね。今までの不貞は見なかったふりをしてさしあげます。その代わり、そいつにもらったものはすべて処分ですよ。本は今すぐ売り払います」
息が詰まった。とっさに自分の喉を押さえながら、蒼はぎこちない笑みを浮かべる。
みっともなくないように、笑って、問いを投げる。
「ほんの少し、ほんの数冊だけでも残せませんか。それが駄目なら……栞だけでも」
そんな蒼に、坂本はどす黒い顔を近づけてきた。
「栞はみんな焼きます。そうしないと、僕は何をするかわからない。昔からカッとする性質なんです。このままじゃ、あなたの支援者を殺してしまうかもしれない」
「あ……」
蒼は、口の中で小さな悲鳴を上げた。
栞の君が、自分のせいで殺される。そんなことがあってはならない。絶対に駄目だ。
そんなことになったら世界の終わりだ。この世から希望がなくなってしまう。
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