第4話





「……ただいま」



 綿みたいに疲れた体をひきずり、蒼はたてつけの悪いふすまを開ける。


 公演が終わり、芝居小屋の二階にある自分の部屋に帰ってこられたのは真夜中だった。


 それまではずっと不機嫌な団長に引きずり回され、昼間の不始末を説教されていたのだ。食事をする暇もなく、台所で喉を潤すので精一杯。疲労で今にも倒れそうになっていた蒼だが、自分の部屋を見ると一息つけた。


 手品団の面々は近所の長屋住まいだが、団長に拾われた蒼ともう一人の子どもは芝居小屋に住んでいる。蒼の部屋は元は倉庫として使われていた四畳半だ。今はたんが一さおと、づくえ、そして、本がある。本といっても一冊や二冊ではない。うずたかく積まれた本の山と山の間には、ほとんど布団を敷く隙間しかないくらい本が多い。



「待っててくれたのね、みんな」



 蒼は山になった本の表紙をそうっとでる。


 ひとなで、ふたなでしているうちに、こわばった蒼の心はほんのかすかに和らいだ。


 本はいい。本を読んでいる間、蒼は自分のみっともない体を抜け出して、別の世界に旅立つことができる。それは大昔のちゆうごくであったり、はるか海の向こうの欧羅巴ヨーロツパであったりもする。文字の不思議に触れるときもあれば、生物の神秘をのぞき見ることもある。


 ここにある本はすべて、蒼が『しおりの君』と呼んでいる支援者から贈られたものだ。


『栞の君』は不思議な人物で、数年前、急に蒼に手紙を寄こしたのだ。


 立派な使者に持たせてきた手紙の中身は、「好きなものを送る。ただし、現金はいけない」というもの。


 心当たりのない蒼は戸惑ったが、使者は主人が誰だか明かさない。仕方がないので団長や手品団の面々が必要なものを募って頼んでみたが、「蒼が使うものでなければいけない」と却下されてしまう。苦肉の策で頼んだのが本だった。手品団に入る前からひらがなは読めたので、気晴らしになるだろうと思ったのだ。


 結果として、栞の君は大層喜んだ。以降、「たまに感想の手紙を書くように」と言い添えて、高価な本を定期的に届けてくれる。団長たちは最初こそ蒼の本をこっそり売ろうとしたが、栞の君が近所の古本屋に根回しをしたらしく、買い取り拒否にあったそうだ。


 蒼はこてんと本の間に寝転がった。



「読みたいな」



 蒼はつぶやき、寝返りを打って目を閉じる。自室の電気をつけることは団長夫婦から禁じられているので、夜の読書は不可能だ。それでも、こうしているだけで心は安らぐ。



「……そうだ」



 蒼はうっすらと目を開き、体を起こす。


 そのまま部屋の隅のしようびつあさり、手探りでたくさんの短冊を取り出した。蒼の支援者は、本に直筆の短冊を栞として挟んでくれる。蒼はこの栞が本と同等、ひょっとしたらそれ以上に楽しみだった。



「栞の君。わたし、今日も失敗してしまいました。団長に申し訳ありません」



 蒼は小声で囁く。


 手の中の栞は何も返してこないけれど、周囲の本はじっと蒼を見守っている。


 栞の君が送ってくる本は易しいものから始まり、今では様々な教養をつけられる内容になっている。読めば読むほど、蒼は本の世界に夢中になった。


 ──けれど結婚してしまったら、この世界ともお別れだ。



「栞の君。私はもっと勉強して、団長や手品団や、旦那さまのお役に立ちたいのです。でも……私の旦那さまになる方は、嫁に学問は要らないのですって。結婚したら、本は整理するようおっしゃっています」



 蒼は膝を抱え、栞に向かって囁きかける。


 結婚相手のさかもとは都内の裕福な雑貨商であるらしい。蒼の『サトリ』を見て、団長に結婚を持ちかけてくれたのだそうだ。結婚すれば金の心配はなくなるし、手品団への支援も約束してくれている。ならば結婚するのが手品団のため。


 蒼は笑顔で嫁に行くつもりだが、本を整理しろと言われているのだけがつらい。


 借り物、お古ばかりの蒼の持ち物の中で、本は唯一、彼女自身のものなのに。



「仕方ない、仕方ない……全部、仕方ない」



 自分にそっと言い聞かせていると、ふわふわと眠気が湧き上がってきた。


 眠気はあっという間に現実と夢の境を溶かしてしまう。目の前の本がぼやけて、周囲は畳の書斎に変わる。真ん中には立派な文机があって、誰かがいる。着物の後ろ姿。父だろうか。その人からは、石けんと消毒薬の匂いがする。


 夢、夢だ。昔の、夢。何度も見る、昔の夢。


 今日の夢はいつもより大分鮮明だった。蒼は夢の中で、小さな洋館を駆け回る。


 山ほどの本と、薬棚と、銀色にきらめくたらい。白いレースのカーテンが揺れている。窓の外で揺れる木々の枝。緑色に塗られた廊下。その向こうにいるのは──父と、母だ。


 白い洋装をまとった父と母が、廊下の向こうで笑いながら手を振っている。



「父さま、母さま!」



 蒼は夢中で手を振り、父と母に駆け寄ろうとする。


 そのとき、猛烈な炎が周囲を包んだ。



「やめて、やめて、やめて……!」



 蒼は必死に叫ぶ。火を、火を消さなければ。


 だって、火の向こうで、まだ両親が手を振っている。生きて、手を振っている。笑って、手を振っている。


 ──あおい。あおい。


 両親が私を呼んでいる。助けなければ。助けなければ。どうにかしなければ。


 私が、無事な私が、助けなければ。今助けなければ、自分はひとりぼっちになってしまう。手を伸ばして、両親の手を摑まなければ。


 そう思うのに、炎に巻かれた家には水などなくて。蒼には、何もできなくて。炎は無音で燃え続けて。両親は手を振り続けて、蒼の手は少しも両親に届かなくて。


 両親の姿は、やがて──ふっつりと、消えた。




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