第2話

第一話 奪われた花嫁





あおいっ、何ぼーっとしてんだい!」


「はいっ! すみません、ななねえさん」



 蒼は跳び上がるようにして我に返った。


 楽屋は初秋でもひどく蒸す。ついついぼうっと昔のことを思い出してしまった。


 蒼は毛羽だった畳に指を突き、深々と頭を下げる。そのおっとりとした丁寧な所作を見て、手品団の女、七緒は舌打ちをした。



「謝るときまでのろまだねぇ。早く、ドーラン!」


「はい、こちらに」



 蒼は、さっと化粧道具箱からドーランを取り出す。ドーランとは、舞台用のおしろいだ。手品団の楽屋はせわしない。化粧に着付け、さらには手品の仕込みもある。雑用の自分は、出来る限り素早くしなくては。


 そう思って急いだのに、七緒は嫌な顔をした。



「今日はやけに早いじゃないか。わざわざ準備してたのかい?」


「はい、その、化粧箱に細工をさせて頂いたんです。大道具係から木っ端をもらって、ちょいちょいと。こうして仕切りを作れば、整理がつきますでしょう……?」



 蒼は化粧箱を女に見せる。七緒の言う通り、蒼は素早いほうではない。だから工夫をしたのだが、七緒はますます青筋を立てた。



「なんだい、さかしらに。あたしはこんな小細工を許しちゃいないよ! 生意気な!」


「! ……申し訳ありません、七緒姐さん。何もかも、私が悪うございました」



 蒼はびっくりして深く頭を下げる。


 七緒の邪魔にならないようにと工夫したのに、自分はどうしていつもこうなのか。



「ほんとだよ! 団長のお気に入りだからって、いつまでも無能のまんまじゃ捨てられるよっ! 電信柱みたいな体で、色気のひとつもないのにさ!」



 七緒はますますいらいらと、手に持ったうちわで蒼の頭をたたいた。



「すみません、要領が悪いうえに、器量も悪くて……」



 蒼はかすれた声を絞り出し、畳に額をこすけ続ける。


 蒼がこの『だいきちじなだん』に拾われたのは、十二のとし。今から五年前のことだった。


 おそらく生まれは悪くなかったのだろうと思う。思う、というのは、記憶が定かではないからだ。七歳より前を思い出そうとすると、何もかもが夢のようにぼやけてしまう。


 にじんだ記憶の中から、ぽかり、ぽかりと浮かんでくるのは、広い庭でかくれ鬼をしたときのこと、大きなこいに餌をやったこと、西洋風の店先のような場所で手習いをしていたこと。立派な着物を着たお父さま、たおやかに首をかしげたお母さま。


 そして……百日紅さるすべりの根元で、声をかけられたこと。


 百日紅の記憶に出てくるあのひとは、ずいぶんと品のいい、硬質な声をしていた。


 けれど、それらはすべて失われたもの。七歳以降、蒼は無一文で親戚宅をたらい回しにされた。どこでもく行かなかったのは、きっと蒼がいけなかったのだろう。


 親戚達はいつも言っていた。


『お前の目は本当に気持ちが悪いね』


『こんな仕打ちを受けるのは、全部お前のせいだ』


 そう言い続けられたせいで、蒼は自分の目を鏡で見る勇気がなくなってしまった。


 ただひたすらにうつむいて、ごめんなさい、申し訳ありません、私が悪うございました。繰り返しそう言っては目をらし、頭を下げ、少ない食事であらゆる家事をこなすのが、蒼にできた精一杯だった。


 気持ちの悪い自分は、このまま働いて働いて、いずれ死ぬのだ。


 諦めきっていた蒼だけれど、実際には十二歳の歳に親戚宅を飛び出すことになる。


『お前は本当に悪い子だ。わたしにこんなことをさせて』


 親戚宅の主人が生臭い息を吐きながらのしかかってきたとき、蒼はとっさに彼を押しのけ、土砂降りの庭に駆けだした。逃げるなんて悪いことだと思ったが、頭の中がぐしゃぐしゃで、呼吸が詰まって死んでしまう気がした。


 気付けば裸足はだしのまま駆けて、駆けて、駆けて。蒼は、街に出た。


 時は明治。華やかに欧化した街の裏に未舗装の泥道が走る不思議な時代。


 商家の軒先でぼうぜんと雨宿りをしていた蒼を拾ったのが、手品団の団長だ。


『ちょうどお前くらいの子どもを探してたんだ。手品のタネにならんかね?』


 連れ帰られてから徐々に知ったことだけれど、団長の率いる『大吉手品団』はなかなかの人気を誇る手品団だった。日本古来の手品である手妻の技を守りつつ、西洋由来の手品を派手な演出で見せて大当たり。当時あさくさの外れの古い芝居小屋を買い取ったばかりだった団長は、蒼を住み込みの雑用から始めさせ、やがて演目を持たせるようになる。


 あの雨の日からあっという間に時は過ぎ、今年で五年目。


 蒼の目は相変わらず気持ちが悪いと言われるし、『電信柱』と言われるほど背も伸びてしまったが、こうしてまだ生き延びている。



「何をぼーっとしてんだい、蒼! のりはもう練ったのかい?」



 七緒の叫びに、蒼は頭を下げたまま急いで答える。



「はい! いつものところに、いつもの量用意してございます」


「いつもので足りるか! 今日から、倍ぶちまけるんだよ!」


「え……」



 驚いて蒼は顔を上げた。そんな話は初めて聞いた。


 七緒は蒼の顔を見ると、いきり立って怒鳴る。



「え、じゃない。ウチのだしもんは派手に、派手にで成功してきたんだ。なんだい、だのにてめぇは、いつも辛気くさくうつむきやがって。笑え!」


「はい……! 用意してまいります!」



 蒼は反射的に、ぎこちない笑みを浮かべて立ち上がった。七緒の言うことはごもっともだ。みっともない自分が暗い顔をしていたら迷惑千万。せめてほほんでいなくては。


 そのままばたばたと楽屋を出ると、聞こえよがしの声が追って来た。



「あーあ、あれじゃあの子、自分の化粧する時間はなさそうだねぇ」


「みっともない電信柱に化粧は要らないだろ。澄ました顔しやがって」



 楽しそうな声、吐き捨てるような声、つまらなそうな声。


 ちくちく胸は痛むけれど、何もかも仕方ない。手品団の皆は恩人なのだ。


 大急ぎで廊下を突っ切って裏口へ出ようとすると、団長に出くわす。



「おや、蒼。まだ衣装じゃないのか」


「団長さん、すみません。血糊が普段通りの量しかなくて……」



 蒼はまた深く頭を下げる。


 西洋タキシード姿の団長は、太鼓腹をさすりながら蒼の全身を眺め回した。



「普段の量はあるんだろう? だったらそれでいい。早く着替えなさい」


「は……はい。ありがとうございます」



 蒼はうろたえながら、微笑みを浮かべて礼を言った。ここで団長の言う通りにしても、七緒の怒りはおさまるまい。団長の言う通りにして七緒の怒りを買うか、七緒の言う通りにして自分の衣装をなおざりにし、団長の怒りを買うか。


 どちらへ進んでも地獄、という選択肢を前に、蒼は問いを投げた。



「あの。団長さん、七緒姐さんの演目って、なんでしたでしょうか」


「七緒か? 七緒は十字架はりつけ大復活の術だ。今回は思い切って胸をはだけて、そこをドスッとやりで刺すぞ。実にいい、実にショッキングだ! ウケるぞぉ!」



 団長はウキウキと槍を構える所作を見せる。十字架はりつけ大復活は、西洋手品を取り入れた大規模な手品だ。助手の負担はかなり大きい。槍で刺された振りをしたあと、素早く舞台裏を駆けて、少し離れた場所の箱の中に移動しなくてはならないのだから。


 蒼はぐっと拳を握り、笑顔のまま懸命に言いつのった。



「七緒姐さん、お顔がむくんでいらしたし、目も赤くなっておられました。ひょっとしたら昨晩、たくさんお酒を召したのかも。可能でしたら演目を少し入れ替えたりして……」


「蒼」


「はい」



 団長に呼ばれて、蒼は一生懸命笑みを深める。


 ほとんど同時に、粗末な浴衣を着た胸の真ん中を、どん、と押された。


 よろめいて、蒼は安普請の壁にぶつかる。その頭を団長がつかみ、ぐいぐいと下を向かされる。団長はそのまま、蒼の耳元でうなった。



「誰が、泥まみれで泣いてる可哀想かわいそうなお前を拾ってやったか、覚えてるか?」


「だ、団長さん、です……」



 震え上がってささやき、蒼は必死にその場にいつくばった。土下座をして身を縮めても、団長の声は追ってくる。地を這うような暗い声で、彼は続ける。



「お前に仕事をやり、住むところをやり、食うものをやったのは?」


「団長さんです。あのときは本当に本当にありがとうございました……そのあとも、こんな不器量でのろまな蒼を養って頂いて、感謝しかありません」



 自分を拾ってくれた親切な団長を怒らせるなんて、自分はなんて愚かで無能でみっともないんだろう。目の奥がかあっと熱くなるけれど、泣いたらまた辛気くさくなる。泣くな、泣くな、みっともない私。泣くくらいなら、笑え。それがせめてものご恩返しだ。


 団長はひようたんみたいな顔を真っ赤にしてしゃがみ込むと、蒼の形よい耳を摑んだ。



「本当に感謝しているなら、俺に命令するな!」


「命令だなんて、めっそうもない。考え無しで、申し訳ありません」



 蒼は微笑みながら謝り続ける。団長は息を荒らげ、蒼の頭を壁に押しつけた。



「いいか? お前みたいな気味の悪い女はな、江戸のころならあやかしだって言われて石つぶてを投げられて、橋の下に追いやられるようなもんだったんだ。今が明治の世だから、こうしてまともに働く女でいられる。そうだな?」


「はい。はい。本当に、本当にありがとうございます……」



 蒼は必死に目を伏せ、団長を見ないようにしながら感謝の言葉を口にした。


 団長はそんな蒼を凝視したのち、耳から乱暴に手を離す。



「七緒の演目は変えない。お前は自分の言葉でしやべるんじゃない。いいな? もうすぐ嫁に行っちまうんだ。それまで俺に尽くし通せ。お前を拾ってやって、働かせてやって、旦那まで紹介してやった俺にな」


「はい。もちろんです、私なんかにお嫁入りのお世話までしてくださって、本当に、いくら感謝してもしたりないくらいです」



 蒼が一生懸命笑って見せると、団長はふん、と鼻を鳴らし、足音も高く去って行く。蒼は団長の姿を見送ったのち、しばらくそこにうずくまったまま動けなかった。


 団長が言う通り、蒼にはもうすぐ結婚の予定がある。手品団に支援を約束してくれているお金持ちが相手だ。そんな人と結婚できるなんてしあわせだ。団長に恩返しができるのもしあわせだ。しあわせ。しあわせ。しあわせなことばっかり。


 なのに、なぜだか胸の奥に重いものがあって、体がぴくりとも動かない。


 蒼はぼんやりと、薄い壁の向こうで響く派手な呼び込みの声を聞く。



「よってらっしゃい、見てらっしゃい! 今日の演目は、美女を槍で一刺し! 果たして復活はなるのか? 西洋由来の復活大魔術と、おなじみの水芸、大魔術師のボール魔術、さらにはサトリの見術だよ! とうきようの土産話に、見ていかない手はないよ!」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る