第2話
第一話 奪われた花嫁
「
「はいっ! すみません、
蒼は跳び上がるようにして我に返った。
楽屋は初秋でもひどく蒸す。ついついぼうっと昔のことを思い出してしまった。
蒼は毛羽だった畳に指を突き、深々と頭を下げる。そのおっとりとした丁寧な所作を見て、手品団の女、七緒は舌打ちをした。
「謝るときまでのろまだねぇ。早く、ドーラン!」
「はい、こちらに」
蒼は、さっと化粧道具箱からドーランを取り出す。ドーランとは、舞台用のおしろいだ。手品団の楽屋はせわしない。化粧に着付け、さらには手品の仕込みもある。雑用の自分は、出来る限り素早くしなくては。
そう思って急いだのに、七緒は嫌な顔をした。
「今日はやけに早いじゃないか。わざわざ準備してたのかい?」
「はい、その、化粧箱に細工をさせて頂いたんです。大道具係から木っ端をもらって、ちょいちょいと。こうして仕切りを作れば、整理がつきますでしょう……?」
蒼は化粧箱を女に見せる。七緒の言う通り、蒼は素早いほうではない。だから工夫をしたのだが、七緒はますます青筋を立てた。
「なんだい、
「! ……申し訳ありません、七緒姐さん。何もかも、私が悪うございました」
蒼はびっくりして深く頭を下げる。
七緒の邪魔にならないようにと工夫したのに、自分はどうしていつもこうなのか。
「ほんとだよ! 団長のお気に入りだからって、いつまでも無能のまんまじゃ捨てられるよっ! 電信柱みたいな体で、色気のひとつもないのにさ!」
七緒はますますいらいらと、手に持ったうちわで蒼の頭を
「すみません、要領が悪いうえに、器量も悪くて……」
蒼はかすれた声を絞り出し、畳に額を
蒼がこの『
おそらく生まれは悪くなかったのだろうと思う。思う、というのは、記憶が定かではないからだ。七歳より前を思い出そうとすると、何もかもが夢のようにぼやけてしまう。
にじんだ記憶の中から、ぽかり、ぽかりと浮かんでくるのは、広い庭でかくれ鬼をしたときのこと、大きな
そして……
百日紅の記憶に出てくるあのひとは、ずいぶんと品のいい、硬質な声をしていた。
けれど、それらはすべて失われたもの。七歳以降、蒼は無一文で親戚宅をたらい回しにされた。どこでも
親戚達はいつも言っていた。
『お前の目は本当に気持ちが悪いね』
『こんな仕打ちを受けるのは、全部お前のせいだ』
そう言い続けられたせいで、蒼は自分の目を鏡で見る勇気がなくなってしまった。
ただひたすらにうつむいて、ごめんなさい、申し訳ありません、私が悪うございました。繰り返しそう言っては目を
気持ちの悪い自分は、このまま働いて働いて、いずれ死ぬのだ。
諦めきっていた蒼だけれど、実際には十二歳の歳に親戚宅を飛び出すことになる。
『お前は本当に悪い子だ。わたしにこんなことをさせて』
親戚宅の主人が生臭い息を吐きながらのしかかってきたとき、蒼はとっさに彼を押しのけ、土砂降りの庭に駆けだした。逃げるなんて悪いことだと思ったが、頭の中がぐしゃぐしゃで、呼吸が詰まって死んでしまう気がした。
気付けば
時は明治。華やかに欧化した街の裏に未舗装の泥道が走る不思議な時代。
商家の軒先で
『ちょうどお前くらいの子どもを探してたんだ。手品のタネにならんかね?』
連れ帰られてから徐々に知ったことだけれど、団長の率いる『大吉手品団』はなかなかの人気を誇る手品団だった。日本古来の手品である手妻の技を守りつつ、西洋由来の手品を派手な演出で見せて大当たり。当時
あの雨の日からあっという間に時は過ぎ、今年で五年目。
蒼の目は相変わらず気持ちが悪いと言われるし、『電信柱』と言われるほど背も伸びてしまったが、こうしてまだ生き延びている。
「何をぼーっとしてんだい、蒼!
七緒の叫びに、蒼は頭を下げたまま急いで答える。
「はい! いつものところに、いつもの量用意してございます」
「いつもので足りるか! 今日から、倍ぶちまけるんだよ!」
「え……」
驚いて蒼は顔を上げた。そんな話は初めて聞いた。
七緒は蒼の顔を見ると、いきり立って怒鳴る。
「え、じゃない。ウチのだしもんは派手に、派手にで成功してきたんだ。なんだい、だのにてめぇは、いつも辛気くさくうつむきやがって。笑え!」
「はい……! 用意してまいります!」
蒼は反射的に、ぎこちない笑みを浮かべて立ち上がった。七緒の言うことはごもっともだ。みっともない自分が暗い顔をしていたら迷惑千万。せめて
そのままばたばたと楽屋を出ると、聞こえよがしの声が追って来た。
「あーあ、あれじゃあの子、自分の化粧する時間はなさそうだねぇ」
「みっともない電信柱に化粧は要らないだろ。澄ました顔しやがって」
楽しそうな声、吐き捨てるような声、つまらなそうな声。
ちくちく胸は痛むけれど、何もかも仕方ない。手品団の皆は恩人なのだ。
大急ぎで廊下を突っ切って裏口へ出ようとすると、団長に出くわす。
「おや、蒼。まだ衣装じゃないのか」
「団長さん、すみません。血糊が普段通りの量しかなくて……」
蒼はまた深く頭を下げる。
西洋タキシード姿の団長は、太鼓腹をさすりながら蒼の全身を眺め回した。
「普段の量はあるんだろう? だったらそれでいい。早く着替えなさい」
「は……はい。ありがとうございます」
蒼はうろたえながら、微笑みを浮かべて礼を言った。ここで団長の言う通りにしても、七緒の怒りはおさまるまい。団長の言う通りにして七緒の怒りを買うか、七緒の言う通りにして自分の衣装をなおざりにし、団長の怒りを買うか。
どちらへ進んでも地獄、という選択肢を前に、蒼は問いを投げた。
「あの。団長さん、七緒姐さんの演目って、なんでしたでしょうか」
「七緒か? 七緒は十字架はりつけ大復活の術だ。今回は思い切って胸をはだけて、そこをドスッと
団長はウキウキと槍を構える所作を見せる。十字架はりつけ大復活は、西洋手品を取り入れた大規模な手品だ。助手の負担はかなり大きい。槍で刺された振りをしたあと、素早く舞台裏を駆けて、少し離れた場所の箱の中に移動しなくてはならないのだから。
蒼はぐっと拳を握り、笑顔のまま懸命に言いつのった。
「七緒姐さん、お顔がむくんでいらしたし、目も赤くなっておられました。ひょっとしたら昨晩、たくさんお酒を召したのかも。可能でしたら演目を少し入れ替えたりして……」
「蒼」
「はい」
団長に呼ばれて、蒼は一生懸命笑みを深める。
ほとんど同時に、粗末な浴衣を着た胸の真ん中を、どん、と押された。
よろめいて、蒼は安普請の壁にぶつかる。その頭を団長が
「誰が、泥まみれで泣いてる
「だ、団長さん、です……」
震え上がって
「お前に仕事をやり、住むところをやり、食うものをやったのは?」
「団長さんです。あのときは本当に本当にありがとうございました……そのあとも、こんな不器量でのろまな蒼を養って頂いて、感謝しかありません」
自分を拾ってくれた親切な団長を怒らせるなんて、自分はなんて愚かで無能でみっともないんだろう。目の奥がかあっと熱くなるけれど、泣いたらまた辛気くさくなる。泣くな、泣くな、みっともない私。泣くくらいなら、笑え。それがせめてものご恩返しだ。
団長は
「本当に感謝しているなら、俺に命令するな!」
「命令だなんて、めっそうもない。考え無しで、申し訳ありません」
蒼は微笑みながら謝り続ける。団長は息を荒らげ、蒼の頭を壁に押しつけた。
「いいか? お前みたいな気味の悪い女はな、江戸のころならあやかしだって言われて石つぶてを投げられて、橋の下に追いやられるようなもんだったんだ。今が明治の世だから、こうしてまともに働く女でいられる。そうだな?」
「はい。はい。本当に、本当にありがとうございます……」
蒼は必死に目を伏せ、団長を見ないようにしながら感謝の言葉を口にした。
団長はそんな蒼を凝視したのち、耳から乱暴に手を離す。
「七緒の演目は変えない。お前は自分の言葉で
「はい。もちろんです、私なんかにお嫁入りのお世話までしてくださって、本当に、いくら感謝してもしたりないくらいです」
蒼が一生懸命笑って見せると、団長はふん、と鼻を鳴らし、足音も高く去って行く。蒼は団長の姿を見送ったのち、しばらくそこにうずくまったまま動けなかった。
団長が言う通り、蒼にはもうすぐ結婚の予定がある。手品団に支援を約束してくれているお金持ちが相手だ。そんな人と結婚できるなんてしあわせだ。団長に恩返しができるのもしあわせだ。しあわせ。しあわせ。しあわせなことばっかり。
なのに、なぜだか胸の奥に重いものがあって、体がぴくりとも動かない。
蒼はぼんやりと、薄い壁の向こうで響く派手な呼び込みの声を聞く。
「よってらっしゃい、見てらっしゃい! 今日の演目は、美女を槍で一刺し! 果たして復活はなるのか? 西洋由来の復活大魔術と、おなじみの水芸、大魔術師のボール魔術、さらにはサトリの見術だよ!
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