第6話 当主の座

 無駄にだだっ広い間に、ロゼとユークリッドはふたりきりとなる。どちらも席を立たない。

 いつもの一族の会合では、ドルトディチェ大公が去ったあと、ロゼは最後まで間に残り、不気味ながらも神の御前ごぜんであるかのような神聖さを漂わせる空間を密かに楽しんでいた。だが今回は、どうだろうか。ひとりきりの空間を楽しむまでもなく、一日の終焉しゅうえんを迎えてしまうかもしれない。

 ロゼは最も遠い席に座るユークリッドに目を向ける。すると、光の灯らないブラッドレッドの瞳と視線がかち合った。


「驚きましたか?」

「……何がでしょう」

「俺が、あなたを舞踏会のパートナーとして指名をしたことです」


 ユークリッドの言葉に、ロゼは小さく首を縦に振る。

 ロゼは、皇族やほかの貴族も出席をする公の場に姿を現すこと自体が初めてである。そんな彼女の初めてのパートナーが帝国の女性方の羨望せんぼうの対象、ユークリッドであるのだから、ロゼも驚かないわけにはいかなかったのだ。

 ロゼは、ドルトディチェ大公一族の血筋ではない。血を引いていないのにも関わらず、母がドルトディチェ大公の寵愛を一心に受けているからと言って、直系に名を連ねる異端児として社交界に名をせているのだ。できるだけ、目立つ真似はしたくない。だがユークリッドの隣に立っているだけで、必然と目立ってしまうだろう。

 ロゼは溜息をこぼす。


「何が目的でしょうか」

「目的? 俺がパートナーとしてあなたを指名したことに何か裏があるとでも?」

「それ以外に何が考えられるというのですか?」


 ロゼの瞳に、非難する感情が微量に加えられる。ユークリッドはその目を見て、乾いた笑みをこぼした。滅多めったに見ない彼の笑った姿に、ロゼは内心驚愕する。

 ユークリッドは席を立ち、足音ひとつすら反響する間を優雅に歩く。ロゼの背後に立つと、肩にかかった彼女の髪を払い除けた。黒い手袋越しで触れる手は、気味が悪いほどに優しい。ユークリッドはそっとロゼの耳元に顔を近づける。水のように清らかで、安眠を誘う涼やかな匂いが香った。


「これまで姉上には、決定的なことはあまりお伝えしていませんでしたが……ひとつだけ、お教えしておきましょう」


 耳に吹き込まれる美声に、ロゼは肩を震わせた。ユークリッドは彼女の両肩に手を置き、腕にかけてするりと撫でる。性的な触り方ではないが、寒気を覚えさせることは確かであった。



「全ては、俺が当主の座に就くためです」



 カチ。時が止まる。

 ユークリッドの言葉には、謎の説得力があった。一回目の人生では、彼はこんなにも当主の座に固執こしつしていただろうか。残念ながらロゼの頼りのない記憶に、そのことは刻まれていなかった。

 ユークリッドがドルトディチェ大公家の当主の座にこだわるのなら、それはロゼにとってもよいきざしとなる。さっさとドルトディチェ大公を当主の座から引きずり下ろし、なんの思い入れもない母と共に隠居させてしまえばいい。そうすれば、ドルトディチェ大公一族は滅びることはないし、ロゼも死ぬ運命に導かれることもなくなる。よって、母を守る必要もなければ、ないに等しい一回目の人生の記憶を頼りに、ロゼを庇い死した謎の男を探し出す必要もなくなるのだ。万々歳であるのだが、あのドルトディチェ大公が大人しく当主の座を譲るとは考えにくい。実際、ここ数十代の当主たちは、当主の座を自ら退かないまま、亡くなっているのだから――。

 ロゼは、歴代最強の当主になる可能性があるユークリッドに期待を込めて、彼の手に触れた。


「私はそれを、静かに見守らせていただくとしましょう」


 ロゼの言葉に、ユークリッドは手を強ばらせた。彼はロゼから離れ、彼女が立ちやすいよう手を差し出す。ロゼはそれに甘え、ユークリッドの手に自身の手を重ねた。ふたつも年下の義弟ぎていだとは思えない自然なエスコートに感心しながら、席を立つ。手を放そうとするも、なかなか放してくれやしない。


「ユークリッド」


 ロゼに名を呼ばれ、我に返ったユークリッドは、彼女の手をいさぎよく放す。心地いい温もりは消え去り、残ったのは手袋の感触だけ。少し名残惜なごりおしく感じつつも、ロゼは間をあとにしようとユークリッドの隣を通りかかる。その時、力強く腕を取られた。


「俺は、当主の座に就くためならば、なんでも利用します。そのことを、お忘れなきよう」

「……あなたがそのような人間であることは、百も承知です、ユークリッド」


 ロゼはユークリッドの手を振り払い、今度こそ間をあとにした。そんな彼女の小さな背中を、ユークリッドは見守り続けたのであった。

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