第3話 赤の裏切者

 そこは、さびれた裏路地の一角だというのに、青々とした植物があちこちに芽吹いていた。何か豆粒のような果実をつける細木、茎の節くれだった、木だか草だかわからないまっすぐなもの、下生えの白くてかわいらしい花は、誰も見る者がいないだろうに、誇らしそうに咲いていた。右手の石造りの小屋の壁には、つる草が這って緑のカーテンを引いたようになっている。その反対側は石垣だったが、石の表面や隙間に僅かに積もった土の上に、強かに根を張るコケ類の朔は、胞子を溜め込んでまるまる膨らんでいた。陽の光は届かないが、足元の地面には、どこからか流れ込んだ清水がちょろちょろと流れていて、乾いている箇所はどこにもない―――。


 アンナ・ネッセンは、緑の国の土地にみなぎる生命力に感嘆する気持ちを抑えきれなかった。


 四日前に、緑の国の領内に立ち入って以来、草木のない土地を一度も見ていない。荒涼とした赤の国の土地との国境には、おこぼれのような背の低い草原地帯が申し訳程度に広がっているが、こんなにも瑞々しく、青みに満ちた葉は生まれて初めて見た。それも、この国の人間には何ら珍しいことではないのだ。


 アンナは、手近にあるつる草の葉を一枚引っぱってみた。簡単に千切れると思ったそれは、見た目に反する力強さで茎に張りつき、命の一部を奪われることに頑強に抵抗した。赤の国の黄白色の草の葉は、ちょっと握るだけでぱりぱりと割れてしまうのに。


 少しむきになって、最低限の力で葉が千切れるぎりぎりの境界を探っていると、「何をしている?」と不意に背後から声がかかった。


「あ、ちょっと掃除を―――」


 言い訳の途中で、アンナはやはり自分が咄嗟の対応力に欠けていることを実感した。面倒は起こすなと、父親にも青のにも言われているのに―――。


 緑の国の人々が、自然のものを傷つけるのをひどく気にするということを聞かされていたアンナは、殴打の一発は覚悟して振り向いた。エルフという民族名を自称する、緑の国人の、薄緑色のすべすべした肌と、彫刻のような凹凸の深い顔立ち……ではなく、クリーム色の僧衣に身を包んだ、目の細い男が辟易した様子でこちらを見ていた。


「ヘイワン。脅かさないでよ」


 アンナは胸をなでおろしながら、顔見知りの男を蹴り小突いた。両親が青の国の出身でありながら、白の国に亡命した、伝達係の小柄な青年は、自分よりも背が低いというだけで見下してくる赤毛の少女をきつく睨んだ。


「ドクター・インは、案の定会場付近に立ち入れなかった。既に場内に立ち入った者が招き入れたり、申請を受理された者と一緒に立ち入ったりしたが、無駄だったようだ」


「それじゃあ、また『お前たちに任せると情報の取捨選択がなってない』とかどやされるね」


 アンナは、穏和だがそれ故に声望のない上司の声真似をして、はあとため息をついた。少年諜報員の中でも格別彼を慕っているヘイワンは、尖った声で応じた。


「自分の親父の夜尿の回数まで報告するようなやつはそうだろうな」


 アンナは鼻を鳴らして笑った。


「暗殺するなら一番無防備なところを狙うって教わらなかった?アンタこそ、自分の基準で勝手に情報を解釈して間違ったこと伝えたり、伝えるべきことを省いたりしちゃうって言われてたよ」


 自分よりも七つも年上なのに、彼女と同じ目線で言い争おうとするヘイワンのやり込め方は心得ていた。


 両親が高官に昇ったことで重要な情報に触れる機会が多いものの、彼自身はいつまで経っても“巡礼者”のままだ。白の国の神官の位階では下から二番目に低く、国内各地の寺院を巡って経典を学び、問答に合格すればいいだけの試験に成人になっても落ち続け、寄越す情報も当てにならない。


 白と青、どちらの領分でも才能を認められず、ドクター・インの恩情でまだ『少年』諜報員として扱われている青年のプライドをへし折るのは、恩義あるドクターからも期待されていないと告げてやれば実に簡単だった。


 顔中を真っ赤にして黙り込んでしまったヘイワンに構わず、アンナは彼に自分の父親の部族が用意してきた戦力と、会談で“どちらの立場につくか”を記したスクロールを押しつけた。


「これ、ドクターに渡しといてね。わかったらさっさと消えて」


 ヘイワンは苦い顔でのろのろと歩き出したが、路地裏から抜ける間際、思い出したように振り返った。「この売女の娘が!白の国でお前の母親のことを知らないやつはいないぞ!」ふっと沸き立った怒り殺意を抑えるのに至極努力を要した。アンナが沈黙すると、憤怒に歪んだヘイワンの醜い表情が、勝ち誇ったように晴れ、「じゃあな、クソ女」と言い残して足早に逃げていった。


「……あー、ぶっ殺してやる」


 誰かに聞かれないよう、静かに独り言ちると、惨めな気持ちが胸の中に膨れ上がった。母さんの悪口は、例え自分がどんなに辱められても笑い飛ばすことができるが、それだけは本当に許せなかった。あの人が味わった苦痛を、それでもアンナだけは守ろうとしてくれた決意を、アイツらの誰も知らない癖に―――。


 もう怒りに耐え切れなくなり、大声で鬱憤を吐き出そうとした、その瞬間だった。「やなやつだったね、アイツ」妙に緊張感のない、飄々とした声が、すぐ真隣から囁かれた。


「友達ならもうつるまないほうがいい。僕は親いないけど、じいちゃんの悪口言われたら耐えられないね」


 路地裏の闇から突然溶け出てきたような、真黒なローブの少年に驚き、アンナは怒りとは別種の絶叫を上げかけた。


「誰!アンタ!―――」


 少年は「おっと」と片手を上げ、指先をぱちんと鳴らした。その瞬間、アンナの喉は丸めた布でも突っ込まれたように詰り、声が一切出せなくなった。「落ち着いて」アンナは狼狽し、喉に手を当てて咳き込んだが、少年がもう一度指を鳴らすと、苦しい感覚は即座に消え失せた。


「きみのことは知ってる。青のスパイだろ?僕は黒の魔術師の見習い、レイヴ・レイフマン。レイヴと呼んでくれていい」


 少年はアンナの片手を強引にとり、勝手に握手をした。アンナはたった今起きたことの理解が追いつかず、半分なされるがままにせざるを得なかった。もう片方の手を、そろそろと腰のナイフに伸ばしながら、アンナは少年の全身をざっと見た。


 小柄で、細身で、病的なまでに色が白い。片手には、上部に烏の頭部がデザインされた、地面に突くには短すぎる杖を持っていた。黒の国では滅多に光が射さないため、住人の瞳孔は極端に開いていると聞くが、果たして少年も、瞳のほとんどを埋め尽くすくらいに大きな穴が空いていた。確かに、黒の国の民の特徴は備えている。


「アンタもそうなの?まだガキじゃない」


 ドクターからは、青の国と同盟を結んでいる黒の国にも協力者がいるということは聞いていたが、アンナがスパイになって以来、自身より年下の同業者にはまだ会ったことがなかった。


 少年はにやりと笑うと、大仰に首を振った。


「残念。僕はきみの上司さ。直属には当たらないけど、きみたち子供の諜報員のリストは全部渡されてる」


 ふざけたガキだ、とアンナは思った。ドクター・インでさえ、自分の管轄外の諜報員のことは知らないのに、こんなヤツにそんな権力があるものか。次に少年がおどけたら、首元にナイフでも突きつけてやるつもりで、「じゃあ私のことも知ってんの?」と問うた。


「もちろん。きみはアンナ―――姓は、カンタックのほうがいいだろう。六年前、青の国との国境近くの部族を統合した、アレックス・ボイルドウォーターと、その捕虜にされた女性の子だ。生まれた国を裏切ったのは、母親の復讐のため……これ以上は、きみも聞きたくないだろ?」


 少年は澱みなく答えた。アンナは反射的に少年の胸倉を掴もうとしたが、彼が杖でその腕を払うと、杖が触れた部分に瞬間的に激痛が走った。


 少年が間髪を入れず指を鳴らすと、苦悶の声を漏らしてよろけたアンナを、壁のつる草がヘビのように蠢いて絡めとった。


「随分直情的だなぁ……」


 少年は弱り切ったような表情で言い、アンナの腰のナイフを抜き取った。「返せ」アンナはナイフを取り返そうと暴れたが、つる草の拘束はびくともしなかった。


「わかってるよ。大事な物なんだろ」


 少年はナイフを取り上げるでも、遠くに投げるでもなく、アンナに絡まったつる草を断ち切るのに使った。きつく巻かれていた手首や腿など、肌の露出した部分は赤く痕になっており、そこを思わずさする間に、少年はナイフをアンナの腰の鞘に戻した。


「もう乱暴しない?」


 少年は、にやにや笑って聞いたが、口調にはそれほど余裕はなさそうだった。眉を寄せて、口の端を吊り上げるその表情は、もしかしたら彼なりに友好的に接しているつもりなのかもしれない。一見すると小馬鹿にされているようで、かなり神経を逆なでするようではあったが、きっとそうだろう。


「しない。アンタがもう盗み聞きしないで、不審者みたいに話しかけてこなけりゃね」


 母親の話題になると、どうしても熱くなってしまう自覚はあった。形見のナイフのことまで知っているなら、俄かには信じがたいが、コイツは本当にアンナたちスパイの情報を握っているのだろう。アンナは顔の前でひらひらと「お手上げ」の仕草をして、害意がないことを示してやった。


「ね、アンタじゃなくてレイヴって呼んでよ」


 少年―――確かレイフマン、は、ぐいと顔を近づけて言った。この少年は、実に遠慮がない―――日頃、他人に配慮しない野蛮人たちと生活しているが、こういうずけずけした手合いは初めてだった。意外と長くて上向きの睫毛や、少し尖り気味にすらりと通った鼻梁、白すぎる肌に透ける、薄紫の血管の網目模様―――魔術師らしく、ほんのり薬品や死臭じみたにおいを漂わせてさえいなければ、もしかしたら、少し好きになれるかもしれない。


 アンナがたじろいだのを見てとると、レイフマンは、恐らくこれが彼本来の笑い方なのだろう、きゅっと両目を細めて口元を大きく広げた。


「散歩しよう。その後はお茶でもどう?じいちゃんの淹れる紅茶はとびきりうまいんだ」


 同い年の男と比べても大きくて広いアンナの手を、細くて華奢な手つきで握り、レイフマンは路地裏の暗がりから彼女を連れ出した。くしゅんと小さく、くしゃみをしながら。

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