第2話 緑の巫女④

 次の朝もまた、ニカーラは森の隣人たちの騒がしい歌で目覚めた。いい香りのする水を飲み、頭と体を起こして、母親のガウンを着る。懐かしい匂いは、心の火に一本の太い椚の枝をくべた。心が本当に死んでしまえば、今日まで生きてこられなかったかもしれない。頭では何も感じないと思い込もうとしても、日常の中に紛れ込む家族の小さな面影が、こうして心を焚きつけてくれていたのだろう。


 成人するときに一度仕立ててから袖を通していなかった、沐浴のための行衣を持って外に出た。ぎいぎい、ちゅんちゅん。庭の草陰、樹木の枝葉の中、或いはもう大胆に、足元まで寄ってきて鳴く獣もいる。出発は三日後だという。あと三回、こいつらの顔を見たら、しばらくは会わなくて済む。会場は緑の国の極彩嶺らしい。ここからは近くもなく、遠くもなく、ゆっくり徒歩でも四日ほどと言ったところだ。それから世界樹のところまで行き、ニキーラと会う。その後のことは……自分は、あの巫女様を裏切るような真似ができるだろうか?


 庭を抜けて泉に出ると、珍しく先客がいた。岸辺に座って、足先で水と戯れているその人は、体格は大人のようだったが、戦士のようにごつごつした体つきでも、司祭のようにひなびてもいない。この辺りではまず見ない、薄く、滑らかな流線型―――


「あら、あなた……」


 ニカーラは、何故か見てはいけないものを見た気分になった。巫女様は行衣を纏っていなかったのだ。地面に押しつけられて形を変えた、華奢だが、ニカーラとは違う大人らしさを帯びた腰の形に、どきどきした。


 ニカーラは口の中でごにょごにょ言って、たぶんごめんなさいだとか、そういう類の言葉だったと思うのだが、自分でもよくわからないまま立ち去ろうとした。―――なんで自分は、こんなに汗をかいているんだろう?背筋を伝うのは、冷や汗や、脂汗とも違う、戦場で昂った時にかくような、熱い汗だった。


「待って」巫女様は背を向けたニカーラを引き留めた。


「少し、話しませんか?これから命を預かってもらうのだから、ある程度、私のことを知って欲しいのです」


 戸惑ってまごまごしていると、巫女様は立ち上がって、ニカーラの側まで来た。朝、寝起きだというのに、巫女様の体からは清涼な果実のような匂いがした。若草色の肌から透ける、血管の青い筋―――間近に迫った美貌を、ニカーラは盗み見るように目に焼きつけた。


 巫女様は、慣れた手つきでニカーラのガウンを脱がせ、傍の木にかけた。自分の裸など見て、巫女様はどう思うだろうか?恥じ入る彼女の手を引き、巫女様は水の中へいざなった。熱った肌に、澄んだ水の冷たさが心地よい。巫女様は、ほっそりした、柔らかい手でニカーラの頬に触れた。心なしか、その手もニカーラの顔と同じ熱さに染まっているようだった。


「私にも姉がいました。もう遠い昔のことのようですが、私たちはとても仲が良かった……姉は両親を討ち取った敵の国を恨んでいて、いつか復讐してやろうと私によく言ったものですが、私はそれに頷きながら、心の中では姉さえいれば何もいらないと思っていたのです。頑張りましょう、姉上―――そう言えば、姉は私の頭を撫でてくれると知っていました」


 自分と同じだ、とニカーラは思った。巫女様の姉も、自分と同じ虚無感に苦しんだのだろうか。遠い昔のことのよう―――きっと長い間、巫女様は姉には会えなかったのだろう。自分が強くてよかった。妹に会えるのは、すごく特別なことなのだ。


「巫女様は寂しくありませんでしたか?」


 ニカーラは、巫女様を通じて妹の姿を見てしまった。胸の高まりが少し落ち着き、初めて、巫女様のきらめく青い目を正面から見返すことができた。美しいが、瞳の奥に静かな憂いを湛えた目に、ニカーラの、ニキーラとよく似た顔立ちが映り、悲しい瞳でこちらを見つめていた。


「寂しかったわ」今度は、巫女様のほうが俯いて目を逸らした。


「一日、一秒が、とても永く感じられました。他の巫女たちもいましたし、司祭様がたも良くしてくれました。でも、姉は世界にたったひとりだから、誰も代わりにはなり得ませんでした。自分が寂しいのと同じくらい、姉もこんな思いを抱えているのだと考えたら、もうとても、やりきれなくて……だから、ニキーラにはとっても優しくしています。家族に会いたい思いを紛らわすのではなく、分かり合ってあげるために」


 理解すること、分かち合うこと。それが心を癒すこともあると巫女様は言った。


「ねえニカーラ。私があなたの姉になりましょう。あなたの立場を庇護し、望むものは与えます。けれど、私はとても弱いから、時にはあなたの妹のように、守って欲しいのです。その手、その目で、私を救ってください。その代わりに、私は母親のように、あなたに温もりをあげましょう。妹さんの代わりには、私などではとてもなれないけれど、冷えてしまったあなたの心に、寄り添うことはできるから―――私を、あなたの新しい家族にしてくれませんか?」


 巫女様は、柔らかい胸に、ニカーラの体を優しく抱き留めた。いいにおいがする、とニカーラは思った。「あなたは、レモンのいい香りがする」巫女様は、甘える子供のような声色で言った。蕩けそうなその声の響きを、何度も頭の中で反芻し、ニカーラは、置いていくつもりでいた水差しを、何としても荷物の中に入れなければ、とぼんやり考えたのだった。

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