第2話 緑の巫女③

 集落の中心地は、まるでお祭りでも開かれているみたいに賑やかだった。


 緑の国の竜の王“地母神”は、世界樹の化身だと考えられている。その卵を宿すということは、神の一族に迎えられたに等しいのだ。たった八年で死ぬ代わりに、その間、巫女は並外れた賛美を受けた。


 集落の誰もがみな、巫女様を歓待するためにうきうきしている。エルフの正装である戦装束を着込み、普段草木の生い茂っている中央広場をきちんと刈り込んで整備していた。集落の外の道から広場の奥まで続く飛び石は、それに従って進むと、集落の一番小高い丘にある古ぼけた石造りの神殿に行き着く。あの日、ニキーラを連れて行った司祭たちも誇らしげな顔でそこにいた。


 あいつらが妹に何をしてやったつもりでいるのだろうとニカーラは思った。戦士になれず、かといって、ニキーラのように賢いわけでもない愚図共。いったい何度奴らの首をねじ切る妄想をしたことだろう。


 やつらが妹を連れて行った朝のことを今でも鮮明に覚えている。若い女二人と、壮年の男が一人。そいつらを従えた、皺くちゃの、樹皮のような顔をしたババアが、泣いて嫌がるニキーラを連れて行った。ニカーラは男に取り押さえられ、妹がじたばたもがきながら引きずられて行くのを見送ることしかできなかった。


 ニカーラは、集落の、いやもしかしたらエルフの戦士の中で唯一、自分だけが持つことを許された鋼の剣の柄頭をぎゅっと握りしめた。これは今となっては誇りだった。獣の骨の矢頭は、金属の鎧を貫くのには十分でも、痛覚のないアンデッドを破壊して動けなくするような威力はない。


“白銀”なんて洒落たあだ名でなくてもいい。アンデッドを鋼の剣で屠る戦士の名前が、妹のところまで届いているのなら、それはニキーラを元気づけてあげられているかもしれないのだ。


 ―――もし妹が、自分の運命に絶望し、悲嘆にくれているのなら。この集落のみなを殺してでも、ニキーラを連れ去って、死ぬまでその手を握っていてやろう。「もし」があるのなら、もうひとつ、彼女に産みつけられた忌々しい卵を取り除く方法を探してやりたい―――


 ニカーラは、この四年間の自分を呪った。ひとりぼっちに絶望し、妹を助けてやれるかどうかなんで考えもしなかった。黒の魔術師、白の枢機卿、青の科学者。頼るべきはいくらでもいる。恨みや不信、地理、立場。そういうものを乗り越えて、行動する覚悟がなぜできなかったのだ?


 父のお下がりの弓。つる草で編んだサンダル、獣の革の胸当て、グローブ、手甲、脚絆―――母のものだった装備は体によくなじんだ。五歳の誕生日に妹とお揃いで貰った、“地母神”の抜け落ちた歯で作られたナイフ。私物を持っていくことの許されなかった妹の分を、自分の分と対にして腰に提げた。家族の面影が感じられる物さえもうどうでもいいと思っていたのに、今のニカーラは誰にも負ける気がしなかった。


 “巫女様”の一団がやってきたのは、正午を過ぎた頃だった。みな白装束で、顔の前に布切れを下げているので顔がわからなかったが、やがて後から御簾で囲われた輿が担がれてやってくるのを見て、妹はあれに乗っているのだとニカーラは確信した。


 広場を挟んで取り囲む群衆の中で、精一杯背伸びをしてそれを見つけたニカーラは、不規則に蠢く人波を掻き分け、産み落とされるように広場の中心へ躍り出た。整理係が何か言ったが、そんなことはもう彼女の耳には届かなかった。


 ニカーラは一度大きく息を吸い、肺腑の中へ空気を溜めこんだ。ちょうど、水に潜るときにするように。


 白装束の先頭が、彼らの前に立ちはだかるニカーラを指さして叫んだ。群衆がざわめき、司祭たちのしわがれた声が遠くから近づいてくる。


 邪魔されてたまるか。ニカーラは一条の風になった。白装束たちの隙間をくぐり、輿を目指して疾走する。


 残り三十メートルほどのところで、巫女の護衛と思われる戦士が制止したが、ニカーラは止まらなかった。司祭のババアが叫喚した。群衆がどよめいた。すべてが遅く、遠くに感じられる世界を、ニカーラは駆け抜けた。


 戦士のひとりが弓を構えた。獣の骨と腱から作った弓から放たれるエルフの必殺の矢は、ニカーラの体を貫く寸前、彼女の音速の剣にことごとく叩き落とされた。戦士が六本目の矢をつがえようとしたとき、既にニカーラはその懐に潜り込み、鳩尾に肘鉄を突き刺していた。


 ぐらりと頽れた戦士の体を跳ね除けると、すぐに次の戦士が立ちはだかったが、弓は効かないと見たのか、そいつは得物に骨刃の槍を選択した。剣の間合いの外から、鋭い突きで手足や目をいやらしく狙う手際に少し感心めいたものを抱きながら、ニカーラは剣の腹で軌道を逸らし、一合、二合といなしながら手を見極めた。六合目で突きから薙ぎに派生した手を、新たに抜いたニキーラのナイフで弾いて流し、よろめいて隙をさらした顎に、渾身の拳を叩き込んで沈黙させる。


 ―――そこで息が切れ、ニカーラは一度ぶはあ、と大きく呼吸した。視線を周囲に飛ばして情報を集める。もうだいぶ前進した。護衛はあと三人。次にぶつかるのは年嵩の女だったが、彼女はにやにや笑いながら傍観を決め込んでいるようだった。それを不思議に思う余裕もなく、にやついたまま動かない女を無視し、その脇を通り抜けようとするが、横合いから飛び込んできた二人の戦士に阻まれた。


 ひとりはナイフで懐を突こうとし、もう片方は距離をとって矢をつがえた。ニカーラは剣の腹で最低限首から上を覆い、矢の一発は貰う覚悟でナイフ使いに肉薄した。剣で視界を制限され、さらに片手のみでの応戦になったが、敵の動き自体は読みやすかった。短い応酬に競り勝ち、ナイフを逆手に持ち替えて、敵の手首を深く斬りつける。手首の筋を損傷し、取り落とした敵のナイフの柄を、すくい上げるように蹴って投擲すると、虚をつかれた弓使いは、腹部に刃をもろに食らい、一矢も射ることなく蹲った。


 年嵩の女はそれでも動かず、ニカーラはもう目と鼻の先で阻むもののない輿の上に這い上がった。


 この御簾を持ち上げれば、もうそこに妹がいる。ニカーラは震える手で御簾をめくり上げた。


「ニキーラ!―――」


 輿の中では、レースで飾り立てられた緑葉染めのドレスを纏った、長身の女性が座ってニカーラを見上げていた。その表情は、驚嘆のために見開かれていながら、どこかとろんと呆けたようなあどけなさを残している。透き通った若草色の肌に、少し垂れがちな、宝石のような青い目、すっと通った鼻、薄い唇、とがった顎―――


「初めまして」


 その人は言った。―――ニキーラじゃない。こちらをぽかんと見返す女性は、ニカーラよりもだいぶ大人の顔をしていた。


 茫然とするニカーラを、義憤を発した者たちが取り押さえて輿から引きずり下ろし、何か口汚く罵った。誰かの手が、足が、ニカーラの腹や背や手足や頭を打ち据えたが、彼女はそれに何も感じなかった。再び、自分の中身が音を立てて崩壊していく感覚―――立って逃げろ、と頭の中で声がした。あの覚悟はどこに行った?逃げて、別の場所に囚われている妹を探して助けに行かなければ。


 ニカーラは、心にも燃料が必要なのだということを改めて感じていた。大それた覚悟も勇気も、ニキーラという存在が、確かにまだどこかにいるのだということを実感することができたために起こった炎だった。まだかすかに残っていた、妹への愛情と思い出を燃料にして、一瞬燃え上がった儚い炎だったのだ。


 薪をくべなければ火は絶えてしまう。妹に会い、助け出すことで燃え続けられるはずだったニカーラの火は、今完全に消え去ってしまった。空っぽの体を痛めつけられたところで、心がなければ何が苦しかろう。


「よい歓迎でした。国中から選りすぐった至高の戦士たち、そのさらに数段強い戦士がいるとは。我々もまだ精進せねばなりませんな」


 群衆の声が熱を帯び、罰を求めてニカーラの身柄を司祭の元へ運ぼうとしたとき、騒動の一連を傍観していた年嵩の戦士が口を開いた。腹の底にまで響く重みのある声は、殺気立っていた群衆の気を落ち着かせ、ニカーラは、多少乱暴な手つきで解き放たれた。


 群衆を掻き分けてユーリクが現れ、ニカーラの隣に立った。


「早とちりだったみたいだ。母さんが巫女様が来るっていうから、てっきりニキーラかと思って」


 本当は『帰る』とも言わなかった、とユーリクは青い顔で言った。ニカーラが何も言わないので、ユーリクは掠れた声で謝り続けたが、それをどうにかしてやろうという気は起きなかった。


 年嵩の戦士は、遠巻きに見ているだけだった白装束に指示して乱れた群衆を整理させ、昏倒している護衛の戦士を蹴り起こし、その手伝いをさせた。ナイフで腹を刺された戦士は、血の気の失せた顔で寝かされていたが、応急処置がなされ、出血は止められていた。


「やってくれたものだ」と年嵩の戦士は言った。司祭どもがそれを聞きつけて青い顔をし、おたおたと何か言い訳したが、彼女は手でそれを遮った。「もう用件は済んだようなものだ。この娘のお陰でな」


 ニカーラはなんのことだかわからなかった。ユーリクに腕を引かれ、群衆の人垣に紛れる最中だったニカーラを、人々は押し返して留めた。


 年嵩の戦士は、はっきりニカーラだけを見て言った。


「会談が召集された」と。


 彼女は続けて、代表の護衛にする戦士を探していると言った。


「この村には“白銀”のマルゥクと呼ばれる戦士がいると聞いた。会談の場は狭く、弓より速く、槍より短い武器を扱う者が必要なのだ。戦士よ、我々はその剣を欲している」


 ニカーラの周囲の者たちがわっと沸いた。でもニカーラはそれがどういうことなのかわかっていなかったし、ユーリクや、他の若いエルフたちも状況を理解しきれていないようだった。「とりあえずお前、許してもらえてるっぽいぜ」ユーリクが言った。


「マルゥクと言う名に心当たりがないわけではない。此度の行動も理解はできる。まず第一に、この話を飲むなら罪を許そう。第二に、巫女様を無事に会談の場から帰すことができれば、お前の妹に会わせてやる」


 燻っていた熾に火の粉がかかった。ちり、と、今にも消えてなくなりそうな、小さな熱が赤く灯った。


「我々も学んだ。幼い子供を、竜の巫女にするのはとうにやめたのだ。お前の妹は、まだきれいな体で、いずれ来る順番を待っている。『どうか希望を捨てないで』と、お前の妹から伝言だ」


 年嵩の戦士は、ちらと巫女の方へ目をやりながら言った。巫女は、控えめな微笑みでそれに応じた。


「ニキーラは、強く生きていますよ。会えばあなたの話をしてばかりです。どうか我々と共に来ていただけませんか?『お姉さんを連れて帰る』と、あの子と約束してしまったのです」


 巫女の女性の言葉や表情には、人を惹きつけるような力があった。声には母親のような慈悲の響きがあり、そして妹のような、甘く乞う愛らしい目でニカーラを見た。薪が数本、火種の上にくべられた。巫女はニカーラにほっそりした手を差し出した。長く細く、節の滑らかな美しい指。壊さぬようにそっと触れると、とくとくと小さく脈打っていて、あたたかかった。


「ありがとう、戦士よ」


 先ほどまでの、逆巻くような炎とは違う、しかししっかりと、確かに燃える穏やかな火が、ニカーラの心に赤々と灯ったのだった。


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