第2話 緑の巫女②


 それから、四年が経とうとしていた。


 ニカ―ラは、今朝もまたひとりきりで目を覚ました。


 ぎちぎち、ちゅんちゅん。森の中の目覚めは、蟲の鳴き声や鳥のさえずりで騒がしく、ニカ―ラは戦場で眠る方がよほど寝覚めがいいと思った。


 家族四人で過ごした家は、一人で住むには広すぎて、彼女は今、庭先に天幕を張り、そこで生活している。


 緑の国では、家屋を建てるために切り開いた土地に、後から雑草や木などが生えこんできても、そのために家が潰れでもしない限りは、草刈や伐採はおろか、剪定さえもしない。それが自然であるということだから。ニカーラの家の庭ももうほとんど草木が覆いつくしていて、蟲も鳥も小さな獣も我が物顔でたむろしている。


 何か用があって天幕から出ると、そいつらは威嚇のつもりか、ただでさえうるさい明け方以上に騒ぎ出すのだ。


 天幕の入口は、風通しをよくするために少し開けてあり、その隙間から見える外の景色はやはり薄暗い。今朝も彼女は、騒がしい隣人の、さんざめく日の出の歌に悩まされていた。


 眠りを妨げられた不快感に胸を悪くしながら、ニカーラはサイドテーブルの水差しをとり、傍のカップに並々注いでぐいと飲み干した。カップも水差しも、戦争で功績を挙げた報酬に切り出すことの許された、特別な香木で作ったもので、一晩水を汲み置けば、のど越しに爽やかな柑橘類の風味をつけ添えてくれる。


 胃に冷たい感触が流れ込むと、次第に体の機能が少しずつ冴え始めて、寝起きの倦怠感や、胸のむかつく感覚が段々と和らいでいった。


 ぼんやりしていた頭の中が、裸の胸を隠さなければと気づくくらいには澄んできた頃、ニカーラは絹のシーツから這い出して、母のお下がりのガウンをとりに立った。


 タンス、クローゼット、テーブル、椅子、ベッド……めぼしい家具はほとんど天幕の中に持ち込んであって、気候の安定している季節の間は、快適に過ごすことができている。あと数か月して雨季が来たら、おそらく湿気が木製の家具類にカビを生やしてしまうだろうが、そんなことはもうどうでもいいことだった。


 ガウンをしまってあるクローゼットを開けると、中に数着ある衣類にはまだ母さんの柔らかい体臭が染みついていて、一瞬過去の懐かしい記憶が頭の隅によみがえった。幸せだったころの記憶―――と言っても、一歳や二歳の頃の思い出なんてロクに残っていないから、三歳くらいから父さんが死ぬまでの二年足らずの僅かな時間だ。もうひとりきりになってからのほうが長く過ぎている。


 ニカーラはガウンを羽織ると、白み始めた外に出た。家の裏手にある泉に沐浴に行くためだ。案の定、獣や蟲がさわいで足下を駆けずり、それらを踏み潰さないように気をつけなければならなかった。エルフは肉を食べないから、狩りをするのは基本的に大型の獣を相手に、戦いの訓練のためにだ。煩わしいからと小動物を殺すのは不名誉なことだった。


 庭の茂みを掻き分けきると、開けた場所に出た。泉に一番近いのはニカーラの家だったが、彼女が戦士として家を空けることが多くなると、公共の場所の整備はしなくてもよくなった。他人がきれいに保ってくれている浴場に朝一番で入ることができるのは、亡者と生き別れの妹の面影を感じながら、今の家に住み続けるのに十分な理由だ。


 ガウンを脱いで近くの木にかけ、朝の爽気と静謐な陽ざしの中に肢体をさらす。森で生きる民には、平原で浴びる生晒しの陽光に比べて、木漏れ日の柔らかい暖かさが好ましかった。


 泉は澄んだ碧に染まっていて、足を踏み入れるとひんやりして心地よい。ニカーラは清水の中にとぷんと身を沈めた。


 寝汗のべたつく感触がなくなるまで、水の中でゆっくり、たゆたうように泳ぎ続ける。普通沐浴するときは、薄い服や布を纏うものだが、幼い時から訪れている目と鼻先の浴場で、今さらそうするのも馬鹿らしい。見られて困るような、大人らしい体つきでもまだないのだし。


 しばらく泳ぎ、皮膚に嫌な感覚がなくなると、一度頭のてっぺんまで深く潜ってから、仰向けに水面に浮かんだ。ぷかぷか揺れる湧水の波に体を任せて、周り一辺の木を伐ったくらいでは青空の窺えない、果てしない緑の天井を見上げる。


 こうして水と戯れているとき、不意にこのまま自分の体も溶けてなくなってくれないかと思うことがある。


 父が死んだとき、まだ母と妹がいた。母が死んだとき、寧ろそれが復讐という生きる理由になった。……妹がいなくなって、誰とも思いを分かち合うことができなくなったとき、ニカーラという存在を形作っていたものがなくなってしまった。


 空っぽのまま、ただ生きるに任せるなら、いっそ体も消えてしまえばいい。


 戦争は、ニカーラの心を殺しても、体までは殺してくれなかった。


 初めての戦場で、ニカ―ラは周りの期待通りの活躍をした。


 弓で六十人の黒の兵士を射殺し、拾った鋼の剣で二百体のアンデッドを斃した。その戦場で最後まで立っていたのは彼女とその近くにいた仲間たちだけだった。


 ……無我夢中で、いつ死んでも構わないと思って戦っていたのに、気づけば彼女は生き延びていた。


 地面に突き刺さっているのをたまたま拾っただけの剣は、それなりに名のある剣だったようで、いくつかの戦場を渡り歩いても、その間折れるどころか、ひと欠けもせず、部族の集落に帰ってきて、手入れをしようと陽の光の下でじっくり見ても、小さな傷一つさえなかった。


 そんな名剣のおかげか、二つ目の戦場で、再び驚くべき戦果を挙げた頃、ニカ―ラには“白銀”なんてあだ名がついていた。


 金属の類を嫌うエルフたちが、そんな異名をつけたのは、剣になんとなく愛着が湧いていたニカ―ラが余計なことを言ったからだ。


「アンデッドの奇襲に遭って、右も左もわからず逃げ回っているとき、偶然目に入ったこの剣の柄がきらきら輝いて見えたんだ」と。


 今にして思えば、単純に陽光が反射していただけだったのだろう。柄は最初、宝石やメッキで飾られていたが、それも戦ううちに剥げてしまった。集落に帰ってくる頃には、少しごてごてした鉄の持ち手にしか見えなくなっていて、それが寧ろ部族の連中には受けていた。


 司祭のババアも便乗して言った。「まさしく、祝福された姉妹じゃ」と。


 ―――竜の苗床になったことが祝福?それを聞いた時、ニカ―ラは全身が烈火のように熱くなった。竜の巫女は、“地母神”の繁殖期ごとに各部族から選ばれるが、竜が苗床にするのは気に入ったたったひとりだけで、他の巫女はみなそれぞれの故郷に帰された。卵を産みつけられた巫女は、ここからかなり離れた世界樹の根本の神殿に幽閉され、もう二度と会えないのだ。


 ……そして、彼女の妹は、この集落に帰ってこなかった。


 前回巫女が選ばれたのはニカーラが生まれる前だった。ニキーラとそう歳の変わらない巫女が選ばれて、三百年は生きるエルフの子が、それから八年で死んでしまったという。


 それが本当なら、妹の寿命はあと四年。それまでこの国を守って戦い、その後はできるだけ激しい戦場に行って、殺されるのを待つとしよう―――「ニカーラ、いるのか?」


 不意に知った声に思考を邪魔され、ニカーラは泉の底に足をついた。三軒となりの家に住んでいるユーリク―――幼いころから見知った仲だ。


「なんなの、この時間は私が使うって知ってるでしょ?」


 ニカーラは前を隠さずに、水底を歩いて岸に上がった。びしょ濡れのままガウンを羽織り、妙に息を切らしているユーリクを見る。彼も強いて目を逸らしたり、かといってじろじろ見たりもせずに、ただ緊張した目をこちらに向け続けていた。


「巫女様が帰ってくるって―――もうすぐそこまで来てるってよ!」


 ユーリクの言ったことの意味を、すぐには理解できず、ニカーラは頭の中で何度もぐるぐると反芻した。


 ―――巫女―――巫女?―――それは、ニキーラのことだ―――帰ってくる―――どこに?この集落に?―――帰ってくる―――妹が、ニキーラが、帰ってくる?


 その言葉の意味を、次第に理解していくにつれて、失われたはずのニカーラの中身が、どくん、どくんと脈打ち始めた。何度も、何度も、どんどん速く、息苦しいほど、力強く。体中に火が灯り、関節が風邪を引いた時みたいに熱っぽかった。


 帰ってくる。会えるのだ、妹に。自分の、ニカーラだけの、生きる意味に!―――

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