閑話 緑の国について

 五国中、最も穏やかで、最も自然に恵まれているのは、まず間違いなく緑の国であって、それは誰しもがわかりきったことである。


 当国の人間はみな善良で、富者は貧者に施すことをよく好む。これが我が国のことなら、弱者に与えるほど富が有り余っているということを再確認して己惚れるためと言われよう。


 だが、彼ら緑の国の人々は、度を越した豊穣のために飢えるということがないのである。土地は有り余り、農場など経営せずとも、食うには困らない。


 そのため、彼らには未だ貨幣という概念はなく、せいぜい風土ごとの食物や嗜好品を物々交換で得る程度の取引しかしない。


 ではなぜ彼らにも貧富という概念が存在し得るか?その問いに答えるには、まず彼ら緑の国人の風俗から説明せねばなるまい。


 まず、これは白の国にも言えることだが、彼らには信仰があり、彼らの王たる竜を神と崇めている。緑の国の信仰体系は、『神』そのものが信仰を主導する白の国と比べて、厳格でなく秩序立ってもいない。


 神官はいるが、階級制度は見られず、専ら彼らは年長の神官の言うことを重んずる。階級による明確な上下関係がないために、白の国の教会に相当する機関は、統治機構としては用いられない。


 また、白の国の経典が、細やかに、堅実に、『神』の名の下に民を統括し、支配するために定められているのに対して、緑の国の経典はほとんど掟のような単純なものである。


 むやみに森を開いてはいけない。妊娠した獣を狩るべきではない。川をひいて生活用水にしてはいけない。鉱山を掘ってはならない―――文明による繁栄を謳う白の経典に比べ、掟は自然への畏怖を植え付けるためのものと言っていい。


 自然に敬服し、傷つけないこと。緑の国の営みは、動植物の繁殖と成長の周期に大きく依存しているがために、彼らの文化には、文明社会的な“繁栄”或いはその前段階の“開拓”とは真逆の思想が根差している。緑の国の人々は、赤の連中と相容れないほどいがみ合うし、そこに行き着いた経緯や手段も異なるが、原始的な共同体を維持し続けているという点では似通っているのだ。


 もう一つ、白の国との大きな違いは、人々が信仰する対象を自らの目で見て知っているかということだ。単純で意味のない比較に思えるが、信ずるべき『神』の虚像を拝むことと、直接『神』の意思や恩寵に触れることとはわけが違う。


 白の国の竜王、“創造主”ことタルシュシュは、三百年前『エキュメ世界教団』を組織して以来、自らは神殿の奥に籠り、稀に“預言者”を介して言を伝えるのみである。如何ほど経典を研究させ、式祭の機会に神意的な奇跡を見せつけようと、最早白の国の民は、社会と生活を存続させるための信教というシステムに従っているに過ぎない。それこそタルシュシュの望んだ統治の形であるのかもしれないが、彼の王が、そう例えば我が祖国の謀略にかかり秘密裏に弑されたとして、民にどれほどの動揺があり得ようか?


 一方、緑の国の人々は、自分が信じる神の実体を知っている。


 便宜上、彼らの信仰の対象は、自然そのものと、その象徴たる世界樹ブラムストレールにとられているが、実情は緑の国の竜王“地母神”の存在を核とした宗教である。


 彼の王は、知能こそ通常の獣とほとんど変わらないが、肉を食らわず、世界樹の溢す一滴百立方の樹液を吸うのを邪魔しなければ最も制御しやすい王である。


 緑の国の獣がみな大型で、彼の地の民族―――彼らは自らエルフと称する―――が驚異的な長寿と身体能力を持つのを見ればわかる通り、世界樹は膨大な、おそらくは我らが“雷帝”が一生に放出する電力の限界に数倍するエネルギーを溜めこんでいる。

“地母神”も例に漏れず、赤の威厳王が死した今、最も巨大で最も強力な竜王であろうが、特異な繁殖方法のために、彼女の眷属は数が極端に少ない。


 というのも、“地母神”の卵は寄生式で育つのである。他の生き物の体内に卵を産みつけるという繁殖の形をとるが、あまり生命力の強い獣に寄生させてしまうと、肉体の抵抗機能によって卵のほうが殺され、食い物よろしく吸収されてしまう。


 そこで、緑の国の人々は、“地母神”の繁殖期が来ると―――これは他の竜の例に漏れず、五十年ごとと非常に長い―――最も生命力に満ち、且つ肉体の抵抗力の弱い者を、巫女―――男でもこう呼ばれる―――として母体に捧げるのである。


 卵を産みつける際に“地母神”が分泌する体液は、巫女の母体を急激に成長させる。それから卵がさらに生命力を奪っていくため、巫女となった者の寿命は精々七、八年にまで縮むことになる。平均して二~三百年ほどは生きるエルフの寿命が、である。


 そこまでして緑の国の人々が、“地母神”に尽くす最大の理由は、彼女が侵略者に対して苛烈なまでに抵抗するということにある。


 おそらくこの最も古き竜は、今現在、最も人間を殺している竜であろう。


 彼女には、民を自ら糾合し、組織だった軍隊を指揮する知能こそないが、それ故に、他の竜が蔑み、侮りがちな獣を従えることができる。たかが獣と言えど、世界樹のエネルギーの恩恵を受け、竜の卵をも抑え込むほどの生命力を持った、強大な獣たちである。炎を吹かず、雷撃を纏わず、民に加護を施す法術に通じているわけでもないが、それでもなお、その身ひとつでそれらのできる竜の眷属と渡り合いうる。


“地母神”自体、他の諸王のようには特別な能力を身に着けていないが、この獣と通じ合うということが、最早特殊な能力と言ってもいいくらいである。


 肥沃な大地を欲する赤の蛮族や、黒の国の辺境貴族の挟み撃ちの侵攻を、諸部族の連合体に過ぎない緑の国の戦士が食い止め続けられているのは、その片側を“地母神”と獣の軍勢が阻むのに任せることができるからである。


 こうした“地母神”の性質により、エルフたちはみな戦士的な気質を持つ。自然の雄大さや、その豊穣な恩恵に留まらず、自然の持つ荒々しい一面をも尊んでいるのである。彼らの王が与える恩恵は、目に見えぬ賜物や、仮初の加護などではなく、ただ圧倒的な力なのだ。


 長々と書いたが、緑の国は豊かであるが故、その恵みを奪おうとする者が常に存在している。そのために人々はみな戦士として育ち、宗教の支配する国家でありながら、彼らの王が力そのものとしての性質を持つがゆえ、それに倣って、彼らの地位は戦士としての優秀さで決まるのである。

 

 いわば、彼らは個人の武力で、土地を、食物を、地位を、嗜好品を買うのであり、これが富める者となる。反対に貧者とは、戦闘力が無きに等しい子供、老人、傷病人を指すことになる。エルフたちはみなが戦士であるが故に、自然の豊かな恵みを享受することが許されるが、戦えぬ者にはそれがない。


 しかして貨幣経済というシステムがないエルフの世界に貧者たちの居場所はなく、戦う以外の労働に対価を支払うという概念のない共同体では、彼らは生きる術を何一つ持たないのである。


 富めるが故に余人を妬まず、恨まない善良な戦士たちは、当然彼らを哀れに思い、労働などを要求することなく、無償で糧を与えるのである。何もさせず、生殺しにして、飼い続けるのだ。


 だが“地母神”が死せば、その歪な戦士共同体は終焉を迎えることになるだろう。竜と獣の戦力を失えば、今まで片側の国境に集中していた戦力を二分せざるを得ない。どちらの国境にどれだけの戦士を配分するかの争いは必ず生まれる。それを解決するために、内地では戦士の再生産のシステムを整備する必要が生まれ、前線付近の土地では独自にそこの民を支配し、戦士を集めるという手段をとるだろう。


 貨幣で戦士を雇うという概念のない緑の民は、おそらく単純に奪う―――或いは、武力を以て買う―――ということでしか、二つの組織の対立に終止符を打つことが出来まい。


 二つの国境で戦士を奪い合えば、東南の確執が生まれ、内外で方策が食い違えば、中央と辺境の確執が生まれ、辺境で土地と戦士を奪い合えば、支配者同士の確執が生まれる。確執はやがて育って、内乱の種に肥大しよう。


 過程こそ違えど、赤の国とよく似た崩壊の一途を辿ることになるのである。


 緑の国の戦士たちよ、急ぐがよい。早く次の“地母神”を育て切らねば、汝らもまた蛮族の誹りを受けるようになるぞ!



 青の国の学者ホゥワン、記す。

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