第1話 魔術師と弟子
深い木立の中を、馬車はゆるゆると進んでいた。
「じいちゃん、さっきすれ違った“青”の学者、オロブザルブまであとどのくらいって言ってたかな?」
レイヴ・レイフマンは、覗き窓から外のようすを窺いながら聞いた。ただ深いだけでなく、真黒な幹が立ち並ぶ森の中は、今がまだ昼間のただ中であるということを忘れさせる。《蒸気馬》に乗った痩せぎすの学者は、愛想がいいかわりになんとなく胡散臭かった。一本道だからそんなはずはないけれど、でも念のため、自分たちが迷ってここを出られないということがないか確認しておきたかった。
「レイヴ、お前さんいくつになったかね」
ボックス席の向かい側に座っている、青いとんがり帽子がトレードマークの、レイヴのじいちゃん―――正確には血が繋がっていないから、そう呼ぶべきではないのかもしれないが、子どもの頃からの癖でつい口をついて出てしまう―――は、少しとぼけた顔で聞き返し、レイヴの問いかけには答えてくれなかった。
「もう十三になるよ。あと二年で成人する」
「では、外では先生と呼ぶ方がよいだろう。そろそろ体面というものを気にするべき年齢じゃ」
じいちゃんは、いつになくかしこまった様子でそう言った。のびのびして、飄々と響く声の調子はいつも通りだったけど、しわ深い目元には年季相応の凄みを感じて、レイヴは少し突き放されたような気分になった。
「わかったよ、ごめんなさい先生」
自分がこうして、じいちゃんに付き添わされていることの意味を改めて重く感じとり、レイヴは少し居ずまいを正した。もう独り立ちの準備をしろ、と言われているようで、内心寂しい気持ちもあったけれど、でも緑の国の戦士たちは、十一歳で大人になったと認められるという。それに比べればまだまだ、レイヴには時間が残されているほうだ。
そんなレイヴの考えを見透かしたように、じいちゃんはいつもの優しい顔つきに戻ってにこりと笑った。
「ここは馬車の“中”じゃよ、レイヴ。孫離れには、わしもまだちと惜しいのじゃ」
「じゃあ外では気をつける、じいちゃん」
じいちゃんにつられて自分も相好を崩しながら、笑顔の下で、「なら今言わなくてもいいじゃないか」とレイヴは思った。思い付きで話すのは、マスター・シュスギスの悪い癖だ。いつだったか、兵士の死体からアンデッドを作る魔術の修行中、ふとじいちゃんが青の国の“雷帝”との思い出話を始めたせいで、レイヴは呪文を間違い、塔を一棟吹き飛ばして、あわや新鮮な死体を二つ増やすところだったのだ。
……でも実際、じいちゃんが矍鑠として見えるのは調子のいいときだけで、最近は本当に飛び飛びでしかできごとを覚えていないことが多くなった。ここ数日は、気つけの薬を飲んでなんとか元気でいるが、数分前に話したことを、ぜんぜん関係ない会話の途中で思い出したように繰り返して話したり、逆に聞いた覚えのない話の続きを、こちらが答えられないでいてもどこか上の空で一人喋り続けたり……少し前のじいちゃんとは、明らかに様子が違ってきていた。
じいちゃんがこうして、自分と他愛ない話をしてくれるのも、魔術の師匠として色々なことを教えてくれるのも、そう長く続かないかもしれない。近頃のレイヴは、今この瞬間がかけがえのないものであるということを噛み締めながら、日々を過ごしている。
「青の小僧は数時間ほどで着くと言っとったがのう、わしの記憶が正しければ、まだもう半日はかかるはずじゃよ。それでも《会談》までは三日ある。ゆるりゆるりで参ろうじゃないか」
じいちゃんは、背中を屈めて上目遣いに窓の外を眺めながら言った。
《会談》は、五国の王の誰かが議題を持ち込んで開かれる、国の代表同士の会談だ。例えば次の王の後継者を承認させたり、同盟の仲介や、戦争の調停を求めたりするときに、他の二国以上の承認があれば発議することができる。
といっても、それぞれの国が会談の承認をとらず、独自に外交をするようになって、その制度はほとんど忘れ去られていた。前回の会談はなんと百年前、これも驚くべきことに、じいちゃんはそのとき既に三百年は生きていた。
今や生きている人の中に会談を経験したことのある者はじいちゃん以外にいなくなっていて、既に引退していたじいちゃんは、他の三国からの指名で代表者に引っ張り出されることになったのだ。
黒の国の貴族院の復帰要請くらいなら、のらりくらり断っていたはずのじいちゃんだけど、会談にはかなりの副作用がある気つけの薬まで持ち出して参加しようとしている。
今回の《会談》は、じいちゃんにとってそれだけの価値があるのだ。
「そういえば、あの学者なんの用で
青の国は、会談への出席をただ一国断っていて、しかもすれ違ったということは、彼は会談の会場から帰る途中だったということになる。オロブザルブ古議会場のある極彩嶺は、緑の国の国境付近にあって、レイヴの馬車は比較的平坦な、遠回りの道を進んでいるけれど、でもとてもたったひとりで観光でやってくるようなところじゃない。特に青の国は国境を緑の国に接していないから、敵対国の赤の国か、白の国の領内を通らなければならず、リスクを冒して訪れるのはよほどの奇人か……スパイのどちらかだ。
「まあ間諜じゃろうな」
じいちゃんはなんでもないように言った。
「大方、会場の結界が、申請のない者を通さぬことを知らんかったんだろう。会談に出席する国には、その旨きちんと伝えたがの。常の緑の国ならば、学者が個人的な興味で見に来たと言えば怪しまれようとも無碍にはされぬが、あの魔術をかけたのはわしと、今は亡き白の司祭じゃからのう。あ奴のことは厳格に拒んだじゃろう」
ほっほ、とじいちゃんは小気味よさそうに笑った。
かけた者が死んだ後も、百年先まで残る魔術……レイヴは、おとぎ話の黒の国の呪いのことを思い出した。
「百年前も、緑の国とは僕ら仲悪かったの?」
「いや、わしとオグウイィトはよく会ったものじゃ。あ奴個人は黒の国のことを恨んどったがの、あの時分は停戦中で、赤の国の暴進を食い止めるために緑は黒と手を結んでおった。オグウイィトは分別のあるやつじゃったが、やはり我らのやり方は怨みを買いすぎる……わしも、産まれた故郷があそこであるというだけで、他の国の生まれならやはり黒を忌み嫌ったろうの」
レイヴは、本当ならエルフとして緑の国に産まれていたはずのじいちゃんの、皺くちゃな横顔をじっと見た。真っ青な目、薄緑色のシミ一つない肌。じいちゃんの両親が黒の国を訪れている最中に、黒の国は緑の国に戦争を仕掛け、“汚濁”による焦土侵略で、じいちゃんの両親の故郷は瘴気に冒されて消滅してしまった。
好々爺したじいちゃんにも、暗い感情があることを想像できず、レイヴは返す言葉を見つけられなかった。
じいちゃんの故郷になる筈だった場所を、レイヴの先祖たちはそこに根づく人ごと奪ったのだ。戦後の交渉で、黒国内の緑の国の人たちが返還されるとき、じいちゃんは両親の故郷を元の姿に戻す研究をするために、魔術師に弟子入りして黒の国に残った。実の親と生き別れ、薬や魔術でエルフの寿命をさらに延命してまで求めたその研究は、未だに結実を迎えていない。一体自分などがかけてあげられる言葉がどこにあろう?
「……だが、黒に産まれてよかったことも多々あるよ。お前さんの両親は、優しくいい者たちだったし、その子は玉のように愛らしい。お前さんに魔術を教えとるとき、わしはこの瞬間のために産まれてきたのだと本当に思えるよ」
ひとり淀んだ気持ちを抱えるレイヴを慰めるように、じいちゃんは皺くちゃの手でレイヴの手をとった。
「本音じゃよ、本当に、真実そう思っとる。みじめな妄執にとりつかれたわしを、お前さんが『じいちゃん』と……そう呼んでくれたとき、わしの呪いは解かれたのじゃ。今となっては誰をも、何をも恨まぬ。かわいい孫よ、わしにはもう、お前さんへの愛情以外、心に占めるものは何もないのじゃ」
じいちゃんの手のひらは、もう柔らかさや瑞々しさを失って、枯れ葉のような感触だったけど、でもまだ確かに、はっきりと、生きた熱を放ってあたたかかった。
「ありがとう、じいちゃん。僕絶対、じいちゃんが誇れる魔術師になるよ」
レイヴは、世界で一番賢く、世界で一番偉大で、世界で一番やさしい魔術師の痩せさらばえた体を抱きしめた。自分の熱で、自分の命で、大好きなじいちゃんが少しでも元気になれればいい。いつかはきっとレイヴのことも忘れてしまうんだろうけど―――。
「ね、じいちゃん。じいちゃんが今までに参加した会談のこと、話してよ。どんな人がいて、何を話したの?オグウイィトは、じいちゃんより年上だって言ってたね。どんな風に知り合って、どんな風に仲良くなったのか、教えて欲しいな」
じいちゃんは、優しい声でほっほ、と笑った。
「そうじゃのう、まずは、前回の会談のことから話そうか。議題が至極平穏じゃった。いつか世界が、今の五つの王国でなくなったとき、それでも我らの生きた時代を後の世に伝えるために……オグウイィトが、絵本でも作ったらどうかと言い出してのう。ところが、そのころ三百年ほど生きとったわしや、そのさらに五十年多く生きとったオグウイィト……代表者らの誰も、絵本など作る才能がまったくなかったのじゃ。みながみなの噺を駄作と評し、さんざんにこき下ろされたオグウイィトは、噺づくりの修行の旅に出ると言い出して―――」
木立の細道を、ゆるりゆるりと馬車は進んだ。少しでも長く、二人が孫とじいちゃんでいるために。
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