一匹狼のパラドクス①
「ああ、忘れてた」
イゾッタさんが思い出したように唸る。
「こいつは? 消しちゃってもいいの?」
「うん。女性蔑視がひどくてさー、あーちゃんにしつこく付き纏うからいいやと思って」
チロルさんがそう言うと、男は突然大声で喚き出した。
「悪気があったわけじゃない! ただあの子が可愛かったから、ちょっかいをかけたくなって、それだけ! 本当にそれだけだ!」
「はいはい」
呆れた様子で男の手縄を引っ張りながらチロルさんが返す。
「あなたに悪気があるとかないとかどうでもいいのね。私はあなたのことが嫌いだからあなたを追放するの。あなたは私より弱いからそれに逆らえないの。わかる?」
「俺は! 俺は建築家だ! 生かしておけばきっと役に立つ! 約束するよ!」
焦る思考に舌が追いついていないようで、男は口ごもりながら叫ぶ。
「役に立つからなんなんだ……よ!」
そのときに起こったことを、僕の脳はすぐには理解できなかった。砲丸のように飛んでいく男と、目を眇めてそれを眺めるチロルさんを見て、ようやく「男がチロルさんにぶん投げられたのだ」という事実を受け止める。
「えっ、え?」
戸惑っている僕と対照的にイゾッタさんは平然としていた。
「よく飛ぶなあ」
と感心したように漏らす。
あの高度から落下すれば間違いなく死ぬだろうことは、僕の目にも明らかだった。と言うことは当然、投げた本人もそんなことはわかっているはずで。
だとすれば、チロルさんはあの男を「殺す気で」投げたと言うことに他ならない。
「こ、殺しちゃったんですか?」
凄まじい速度で飛んでいった男の姿は、僕にはもう視認できなかった。
「そだよ。一人入ったら一人追い出さなきゃ」
ぱんぱん、と手を叩いて汚れを払いながらチロルさんが言う。
「あ、でも君のためにとかじゃないからね。たまたまいなくなってほしい人がいて、たまたま君が来たから殺しただけ。君が気に病む必要はなし」
そうは言われても、結果だけ見れば僕が入る代わりに人が死んでしまったという事実は変わらない。心の奥底に、靄のように罪悪感が蟠る。
二人は僕が後ろめたさを感じているのを見てとったようで、空気が見る間に重苦しく変質していく。自分のせいで場の雰囲気が悪くなっていることにも、僕は心苦しさを覚えた。
「えー、自己紹介代わりにショートコントやります!」
そんな空気を払拭するように、チロルさんが大きく声を張り上げた。イゾッタさんがぎょっとした顔で彼女を見る。
「耳が悪い赤ずきんちゃん」
神妙な顔でチロルさんが口にする。周囲に緊張が走った。
「ねえおばあさん、おばあさんにはどうして耳が生えているの?」
「それはね、お前の声がよく聞こえるようにするためだよ」
「え、なんて?」
「いやお前の耳が悪いんかい!」
ばしっ、と虚空へツッコミを入れて、数十秒。さらに重苦しい沈黙が場を支配した。葬式かと見紛うような雰囲気で最初に口を開いたのは、イゾッタさんだった。
「いや……タイトルでオチてるし……自己紹介代わりにもなってねえし……」
チロルさんもそこで流石に自分のショートコントが受けなかったことに気がついたらしく、顔を真っ赤にして俯いた。
「そんなキャラじゃねーだろチロル。なんでやったんだ」
「お、おもしれー女だと思われたくて……」
顔を伏せたままぼそぼそと呟くチロルさんに、なんと声をかけていいか分からずに僕も押し黙る。
「えーと……改めて……。成宮チロルです、日本人です……おねしゃす」
消え入りそうな声で挨拶をされて、どうやらこの人はあまりコミュニケーションが得意なタイプの人間ではなさそうだと僕は悟った。
ヒモだけど人類滅ぼす 林堂ヨウ @Rindo_Yo
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