安楽死に至る病④

「私さ、介護士だったんだよ」


 都市へと戻る道の途中で、バイクを押しながらイゾッタさんは言う。エンジンが稼働していないからか、闇をやけに静かに感じた。


「本当は医者になりたかったんだけど、家に金がなくてさ。母親がとにかく働けって言うから介護士になった」


 僕は何も言わずに彼女の背を追う。横に並んで、イゾッタさんの表情を見るのが少し怖かった。


「まあ医者も介護士も人を助ける仕事だから、って思ってたんだけどさ。全然違ったよ」


 心なしか、ハンドルを握る彼女の手に力が増したように見えた。


「イタリアじゃ介護士なんてのは移民が低賃金でやる仕事で、当然私も安くこき使われた。金が全てじゃないとは分かっていても、生活がままならないんじゃストレスは溜まっていった」


「統合失調症の爺さんにぶん殴られて、認知症の婆さんに糞尿をプレゼントされて、私はだんだんわからなくなっていった」


 イゾッタさんの声は静かで、それでいて圧を持っていた。


「こいつらをたかだか数年生き永らえさせて、それが何になるんだ? 本人は尊厳を失って、私の心身は傷ついて、寿命ってのはそんなに伸ばさないといけないもんなのか?」


「老人を助けることで稼いだ私の給料明細から、老人を助けるための社会保障費が引かれているのをみて、とうとう私の頭はおかしくなった」


 唐突に、イゾッタさんは歩みを止めた。


「本当は殺したかったんだよな。世の中の老人を全員、安らかに死なせることができれば、みんなが幸せになるのにと思った」


「でも無理だった。私はただの、貧乏な家に生まれた高卒の介護士で、それ以上のものを何も持っていなかった。老人が殺せないならどうすればいい? 考えて、考えて、結局答えは出なかった。私は逃げるように自殺した」


 エンジンを蒸す音が荒野に響き渡る。遠くから猫が僕らを見ていた。


「大学に行きたかった。医者になりたかった。老人から尊厳を失わせたくなかった。みんなの負担が少なくなればよかった。私は願うばかりで、何も叶えられなかった」


「だからこんな能力が発現したのかもな」


 ぺろ、とピンク色の舌を出してイゾッタさんは笑う。


「あー、重い話しちった。ごめんな、はよ帰ろーぜ」


 何を言えばいいのかわからなかった。何を言えば彼女が救われるのかわからなかった。それでも。


「僕は」


 バイクに跨るイゾッタさんの背中に向けて、どうにか声を絞り出す。


「好きです。正しいか正しくないかは置いておいて、イゾッタさんの考え方とか、そういうの、好きです」


 イゾッタさんは数秒、静止していた。顔が見えないから、そのときどんな感情を抱いていたのかはわからない。それでも、彼女は笑顔で振り向いて言った。


「ありがとな、救われるよ」


 それから都市に帰り着くまで、僕らは会話をしなかった。相変わらず僕はイゾッタさんの背にへばりついて揺られていたけれど、その背中からは、行きに感じた筋肉の硬直のようなものは感じられなかった。


 急激に周囲の光度が強まっていき、バイクは都市の外郭に到着する。バイクを降りた僕ら二人を待ち構えていたのは、一人の女性と、彼女に縄で引かれている男性だった。


「こら、遅いぞー」


 女性が拳を振り上げて抗議する。特段怒っているわけではないのが声音からわかった。


「ん? 何しに来たんだチロル」


 僕の意識は彼女の容姿に奪われていた。彼女は、本当に月並みな表現で申し訳ないのだけれど、かわいかった。顔立ちが整っているのはもちろんなのだが、もっと何か本能的な部分で愛嬌を感じさせる顔をしている。こういう雰囲気はイゾッタさんに似ていた。


 問題は、彼女にふわふわの耳と大きな尻尾が生えていること。失礼なのは分かっていたけれど、僕の視線はずっとその二か所を行ったり来たりしていた。多分、犬、か狼だ。白に近い水色の髪の毛と、同色の耳と尾。彼女がイヌ科の何かしらの要素を含んでいることは、素人の僕の目にも明らかだった。


「いやいや、イゾッタが一人保護したって言うからさ。なら一人追放しなくちゃと思って連れてきたんだよ」


 チロル、と呼ばれた女性は、縄で両手を縛られた男性を指差す。彼は怯えた目つきで周囲をしきりに伺っており、傍目から見ても焦燥しきっていた。


 そして何より特徴的なのは、彼が『私はあーちゃんにセクハラをしました』と彫られた木の板を首からぶらさけていることだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る