閑話 カルネアデスの板
「クルナ、とある客船が沈没したとしましょう」
先生は角砂糖を珈琲に沈めながら言った。砂糖は熱によって角を溶かされ、見る見るうちに溶けていく。
「一人の乗客が、小さな板にしがみついてどうにか溺死から逃れました。板は小さく、二人が掴まると重さで沈んでしまいます。するとそこにもう一人の乗客が現れ、板の奪い合いが起こりました」
僕は例によってコーラを啜りながら先生の話を聞いていた。先生は砂糖の破片をティースプーンで掬い上げる。
「一人が争いに勝ち、もう一人は死にました。このとき、生き残った者を罪に問うことはできると思いますか」
「できないんじゃないですか」
僕は深く考えずに言った。なんとか防衛だったか、そういう事例に当てはまるんじゃないだろうかと思った。
「結局どっちかは死んでたわけですし。自分が生き残りたいと思うのは自然なことなんじゃ?」
「そうですね」
先生はティースプーンに乗った砂糖を啜る。マナー違反なのだろうけれど、その所作が絵画のように美しかったので何も言えなかった。
「今の話は『カルネアデスの板』という、緊急避難の事例としてよく引き合いに出される寓話なのですが。んべ」
先生は口に含んだ液体をカップに吐き戻した。僕も流石に「汚いですよ……」と言ったが、先生は意に介していないようだった。
「この寓話の本質は、もっと別の部分にあると思いませんか?」
僕の意識は先生が珈琲を吐き戻したカップの方へ持っていかれていて「そうですかね」と適当な返事をしてしまう。
「つまるところ、他人を蹴落として得る幸福に価値はあるのか、という話です」
僕は急いでコーラを飲む。先生が気まぐれに「飲み物を交換しましょうクルナ」と言い出さないとも限らなかったから。少なくとも僕にとっては、先生のよくわからない話よりコーラの方が大事だった。
「幸福とかじゃなくて、ただ単に死にたくなかっただけでは?」
できるだけ話を簡単にしようと僕が言うと、先生はぐいっ、と僕に顔を近づける。紫の瞳が僕を睨め付けた。
「どうして死にたくないのですか?」
僕は答えに窮した。そんなものは死ぬのが怖いからに決まっていて、けれどそう答えると「どうして死ぬのが怖いのですか?」と質問が返ってくることも決まっていたから。先生の死生観は僕、というか普通の人間とは違うのだ。
「生きるのが楽しいからじゃないですか」
家族がいて、仕事がうまくいっていて、人生が順風満帆に運んでいる人だったらきっとそうだ。僕は多分、板にしがみつこうとは思わないけれど。
「つまり、自分の快楽のために他人を蹴落としているわけですよね」
「……そうなりますね」
話が一周してきてしまって、僕はこの話題から逃れられないことを悟った。先生はどうあっても哲学的な話がしたいらしい。
「人間の社会は競争社会ですから、勝者と敗者が存在します。例えばこの珈琲も、ブラジルで悪質な児童労働に従事する子供が作っているものかもしれません。彼らは資本主義社会では敗者ですよね」
また難しい話になった、と僕は頭を抱える。資本主義がどうとか、学校にも行っていない中学生の僕にわかるわけがないのに。
「私たちは彼らの存在を見なかったことにして珈琲を飲みます。自分には関係ありませんからね」
「はい、僕には関係ないです」
僕はとりあえず話を理解しているふりをしようと、先生の言葉を繰り返した。
「社会も海も同じです。誰かが幸福を手にするとき、別の誰かは苦痛を噛み締めているのです」
「そういうことですね」
「邪悪ですよね」
「邪悪です」
「滅んだ方が良いのでしょうか」
「滅んだ方がいいと思います」
僕はそこでコーラを飲み干してしまって、そのときにようやく先生の表情に気がついた。先生は適当な相槌を打つ僕に怒っているわけでも苛立っているわけでもなく、少し悲しそうに顔を歪めていた。
「クルナ、私は滅びたくありません」
先生が僅かとはいえ感情を露わにすることは珍しかったから、僕も自然と動揺する。
「いや、僕が人類をどうこうできるわけじゃないので……」
僕がそう言うと、先生は僕の頬に触れた。それから真っ直ぐ僕の目を見る。長い睫毛が蝶の羽のように瞬く。
「いいえ、クルナ。あなたが人類を救うのですよ」
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