安楽死に至る病②

「ひとごろし……」


 鸚鵡返しで呟くことが、僕の精一杯の反応だった。急に彼女が別世界の生き物のように思えてきて、背筋が冷たくなる。

 そんな僕の様子を察したのか、イゾッタさんは「あー、、違くて」と視線を動かす。


「説明しても信じらんないだろうから、一緒に行くか」


 これは一緒に人を殺しに行こう、と誘われているのだろうか。いくら僕が記憶喪失でも、その誘いが普通のものでないことくらいは分かる。さりとて僕がこの世界で頼れる人が彼女だけというのもまた事実だったので、僕は「いきます……」と歯切れの悪い返事をした。


「行きたくなさそう! いやわかるけどさ」


 イゾッタさんはそう言いながら部屋のドアを開けて僕を手招きした。誘われるままに外に出て、僕は言葉を失った。

 狭い、どころの話ではない。天井は少し手を伸ばせば届く場所にあって、通路の横幅は人一人がやっと通れるくらい。およそまともな建物でないことは、ひと目見ただけで予想がついた。


「わりーな、狭いんだここ」

 イゾッタさんは慣れた様子で「こっちな」と通路を進んでいく。僕も彼女を見失わないように慌てて跡を追った。


「建築法とかないからさ、応急処置で増築と改築を繰り返してたら迷路みたいになって。住んでてもたまに迷うんだよここ」


 言葉とは反対に、彼女はすいすいと路地を曲がっていく。この建物は全体的に煤けている、というか汚れていた。小さな電球がいくつか設置されてはいるが、明らかに光量が足りず、足元が覚束ない。ところどころの壁には漢字、僕も読めないので多分中国語で何かが書かれた紙が貼り付けられていた。


「……暗いですね」


 躓かないように足元を確かめながら歩く。今が昼なのか夜なのかは分からないけれど、どちらにしても暗すぎる気がした。建物は隙間だらけで、夜だとしても月や星の光が差しているはずだ。


「うんまあ、太陽も月もないからな。ずっと真っ暗なんだよこの世界」


「え」


 絶句して足を止める僕に気づかず、イゾッタさんはどんどんと進んでいく。世界が常闇であることは、彼女にとっては大した事実ではないみたいだった。


「異世界だよ、ここ。普通に太陽と月があったらそこはもう地球だろ」


 それは確かにそうだけれど。朝が来る暮らしが当たり前だった僕にとって、太陽が存在しない世界はそれなりに衝撃的だった。ようやく、自分は生前とは違う場所に来たのだという実感が湧いた気がする。


「お、ついた」


 突然視界が開け、迷路のような建物の外に出たことを悟る。イゾッタさんの視線の先には、不恰好でパーツの歪な自動二輪車が置いてある。


「バイクですか?」


「うん、私の仕事道具」


 彼女はバイクに跨り、何やらバイクをいじり始める。数回、大きな排気音がして、それから一層大きな音と共にエンジンが稼働した。


「ほら、後ろ」


 後部座席と呼ぶにはやや狭いスペースにおそるおそる腰を下ろす。意外と座り心地は悪くなかった。


「うし、捕まってろよ」


 その言葉と同時にぶおおん、と鼓膜を殴りつけるような音が響く。僕は動転して彼女の腰を掴んだ。もっと正確に言うと、腰に手を回して、驚きのあまりお腹をつかんでしまった。柔らかい感触が指先に弾む。


「いや腹をつまむな。くすぐったいだろ」


 イゾッタさんはけらけらと笑って「こうな」と自分のお腹の前に組んだ僕の手を持ってくる。多分、僕の顔は焦燥と恥ずかしさで真っ赤になっていたと思う。


「じゃ、改めて。捕まってろよお!」


 ばるるるる、と特大の音が鳴り響き、バイクが発進する。イゾッタさんの運転するバイクは、風を裂くような速度で走りだ……さなかった。

 遅い、それはバイクと呼ぶにはあまりに遅すぎた。徒歩よりは早いが、走るよりは明らかに遅い。車というより、メリーゴーランドと表現するのが適切な気がするくらいに、そのバイクは遅かった。


「……遅くないですか?」


 僕が遠慮がちに言うと、イゾッタさんは「うん、遅いな」とあっけらかんと返す。


「しゃーないだろ。古いし、直せるやついないし」


 当たり前だけれど、この世界にもバイクを作ることができる人はいたみたいで。あらゆる人が死んでこの世界に来るのだからそれは当然なのだろうけれど、彼女の言い方には少し違和感を覚えた。イゾッタさんは「椅子取りゲーム」だと言っていた。なら、そのゲームで勝ち残る人はどんな人なんだろう。


「さっき、椅子取りゲームって言ってましたけど。どういう意味なんですか?」


 バイクは大通りに出たみたいだった。人は何人か出歩いていたけれど、よく顔は見えなかった。通りの両側には鉄骨が剥き出しのアパートがひしめき合っていて、ほぼ全ての窓から光が漏れている。顔を上げると、夥しい数の窓が同じように発光していて、おそらく夥しい数の人がこの都市を住まいにしているだろうことがわかった。


「そのままの意味だけど」


 イゾッタさんは窓を指差して言った。


「転生せずに済むことができる人間の数は決まってる。正確な値は私も知らんけど、この都市の人口は五万人を超えないように調整されてる」


「この都市の人口だけ調整しても意味ないんじゃないですか?」


 全ての人がこの世界に来るのだから、その数はきっと何十億だろう。たかだか五万人規模の都市の人数をどうこうしたって、全体の調和がとれていなければ意味がない。


「いや、ある」


 彼女は確信を持っているみたいだった。


「この都市の外で人間は生きられないからな」

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