安楽死に至る病①

 桃の香りで目が覚めた。上手く思考が働かないので、しばらく灰色の天井と見つめ合っていた。ふわふわと頭の上を流れる煙から桃の匂いがして、ふっと我に返る。


「よ、起きたか」


 煙の元を辿ると、女性と目が合った。セミロングの黒髪と、茶色の大きな瞳。黒いスキニーパンツと、袖のない黒のニットセーターが妖艶な雰囲気を醸し出している。


「えっ、と……」


 目が覚めるような美人だった。そしておそらく、僕の勘が正しければ、彼女は日本人ではなかった。少なくともアジア圏の生まれではなくて、たぶんヨーロッパの方の人だと思う。


「何が何だかわかんねーって顔してるな」


 日本語で。彼女は、流暢な日本語でそう言った。明らかに日本人ではない人が完璧に日本語を操っている状況と、自分が知らない女性の部屋のベッドで寝ているという状況を、僕の頭はすぐに受け入れることができなかった。


「無理もないけど」


 彼女は吸っていた煙草を灰皿に押し付けると、僕の横たわっているベッドに腰かけた。


「一から説明するぞ、多分理解できないだろうけどとりあえず聞け」


 僕は訳もわからず「はい」と言った。彼女が動いた際に香る桃の甘い匂いが、僕の思考を阻害した。


「ここは死後の世界だ。もっと正確に言うと、死後の世界に存在する都市のはずれに立地しているマンションの一室だ」


 僕はとりあえず「はい」と返事をした。何が「はい」なのかは自分でもよくわかっていなかった。


「私の名前はイゾッタ。イゾッタ・ギャロ。イタリア人だ。荒野に転がっていたお前を家まで引きずってきた」


「ありがとう、ございます……?」


 首を傾げながら僕が言うと、イゾッタさんは「ん」と頷いて口を開いた。


「ここからが重要なんだが。種明かしをすると、人間の魂は輪廻するようにできている。死んだ人間はこっちの世界に来て、『裁き』を受けて赤子として向こうの世界に戻る。ここまではいいか?」


「はい」


 全くよくはなかったけれど、口だけの返事をする。イゾッタさんは半笑いで「いいのかよ」と言った。


「普通に考えれば数が合わないだろ。なにせ死者の数より生まれてくる赤子の数のが多いからな」


 それは確かにそうだ。確か、世界では一日に四十万人近くが生まれていて、十五万人くらいが死んでいるんだとか。輪廻転生が事実であるのなら、計算が合わない。


「元老院のジジイが言うには、椅子取りゲームらしい」


 彼女はどこからか煙草を取り出して火をつけた。


「詳しくはわからないが、転生せずに済む人間の数は決まっていて、私らはその椅子を奪い合う必要があるんだと」


「んで、私はこれまでどうにか椅子を勝ち取り、転生することなくこの世界で過ごすことができている。どうだ、わかったか?」


 ふー、と彼女が息を吐くと同時、桃の匂いが部屋に充満する。


「全然わかんないです」


 僕がそう言うと、彼女は「だよな」と腹を抱えて笑った。どこがわからないのかと言われれば、後半が全く理解できなかった。イゾッタさんが転生せずに済んでいる具体的な理由とか、突然出てきた元老院の人たちとか、そういうものが全くわからない。


「ま、詳しいことはおいおいでいいよ。そのうち分かるようになる」


 じりじり、と煙草の先が赤く発光する。思えば、この煙草からは特有の嫌な匂いがしなった。


「名前は?」


 イゾッタさんが僕の方を向いて、少し首を傾ける。上目遣いの茶色い瞳に、心臓が小さく跳ねる。


「名前、は……」


 自分の名前を口にしようとして、止まった。思考と、舌の動きと、瞬きが。

 思い出せない。自分の名前が。名前だけじゃない。過去が、自分の人生の大事な部分が、何一つ思い出せなかった。そもそも僕はどうして死んだ? 天寿を全うしたわけじゃないのは分かる。僕の声も、肌も、老人のそれじゃない。ということはなんだ? 事故? 病気? 心当たりがまるでなかった。


「大丈夫か?」


 物凄い勢いで回転する思考と反対に、僕の身体は硬直していたらしく、イゾッタさんが心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。


「大丈夫じゃない、かも……」


「自分の名前、思い出せなくて」


 僕が呟くように言うと、彼女の表情はいっそう不安げなものになる。


「記憶喪失か? なんか覚えてることとかないのか?」


 言われて必死に思い出そうとするけれど、大した記憶が出てこない。


「卵を割ったら双子で嬉しかった記憶とか……コアラの形の雲がかわいかったとかはありますけど……」


 おずおずと言うと、イゾッタさんはなんとも微妙な顔をした。


「いや……そんな日常のささやかな幸福みたいなのじゃなくて……生い立ちの記憶とか覚えてないの?」


「ううん……思い出せないです」


 記憶の奥を探ろうとすると頭に鈍痛が走って、それ以上深くへいけない。思い出せるのはどうでもいい記憶ばかりだった。


「まあしゃーねえな。思い出したくないこともあるだろ」


 そう言うと、イゾッタさんは眉を顰めた。


「しかし、名前がわかんないと不便だな。いっそ自分で決めたらどうよ」


 唐突な提案に、僕は思わず「え」と声を漏らす。自分の名前を自分で決める、なんて発想に至ったことがなかったから。


「名前、って……親とかから貰うものなんじゃないですか?」


 僕の言葉に、イゾッタさんは手をひらひらと振って返した。


「名前なんか識別できりゃいいんだから、自分で気に入ったのつければいいだろ。親にクソダサい名前つけられるよりよっぽどいい」


 そういうものなのだろうか。でも、僕はやっぱり自分で自分に名前をつける気にはなれなかった。人からもらった名前だからこそ、大切にしようと思える気がしたのだ。


「……イゾッタさん、つけてくれませんか?」


「えっ」


 イゾッタさんは「ええ……」と口をモゴモゴさせていたけれど、僕が


「イゾッタさんにつけてほしいです」


 と追撃をしたら、視線を斜め下に逸らして

「あんま自信ないけど……」と了承してくれる。


「でも私、日本語に詳しくないぞ。ニンジャとか、サムライとかしか知らん」


「えっ」


 今度は僕が言う番だった。


「日本語めちゃくちゃ喋ってるじゃないですか」


「え? いや私はイタリア……」


 そこまで言って「あー」と低く唸る。


「言ってなかった。この世界には言語の壁が存在しないんだよ。私にはお前がイタリア語を喋っているように聞こえるし、お前には私が日本語を喋っているように聞こえてる」


 意味が分からなかった。彼女が話しているのはどう聞いても日本語、しかも少し崩れた語調のものだ。今更イタリア語で喋っていると言われてもそう簡単には信じられない。


「いや、気持ちはわかるけど。そういうもんだと思って今は受け入れてくれ。な?」


 ぽんぽん、と肩を叩かれて僕は渋々「はあ……」と頷いた。いちいち突っかかっていても話が進まないことは僕もわかっていた。


「んで、名前な。日本人の名前知らないんだよなあ私……スシとか?」


「いや、スシはちょっと……」


 スシというのは名称であって名前ではないと思ったのだが、名付け親を頼んでしまっている以上強くは言えない。イゾッタさんは「テンプラは?」「マッチャは?」と矢継ぎ早に聞いてくる。僕は「いやあ……」と首を傾げることしかできなかった。


「あ!」


 唐突に、イゾッタさんは大きな声を上げた。


「オタクは? かっこいいじゃんかオタク!」


 ばんばんと嬉しそうに僕の背中を叩くイゾッタさん。オタクがかっこいいという感情が僕にはいまいち理解できなかった。


「かっこいいんですか? オタクって」


「違うのか? 日本のオタクはすげーアニメが好きで、女遊びもせずにアニメを愛し続ける、なんつーかサムライみたいな騎士道精神の持ち主なんじゃねーの?」


「……そうかもしれないですね」


 オタクという言葉がそれほど良い意味を保つ言葉でなかった記憶はあるのだけれど、イゾッタさんがそう思ってくれているのならそれでいいと思った。


「いいですね、僕、今日からオタクになります」


「おー! うんうん、よろしくなオタク!」


 突然、柔らかい何かが身体に押しつけられた感覚があって、自分がイゾッタさんにハグをされているのだと気がついた。イタリアでは多分一般的なコミュニケーションなのだろうけれど、日本人、というか僕には刺激が強すぎて、どうしていいのか分からなくなる。おそるおそる彼女の背中に手を回して、触れてしまってもいいのだろうか、とか考えているうちに、イゾッタさんが「あ!」と大きな声をあげて僕から離れた。


「やべ、仕事の時間だ」


 言うなり、ばたばたと部屋を駆け回って身支度を整え始める。


「仕事? なんの仕事ですか?」


 僕が尋ねると、彼女は「何って……」とジャケットを羽織りながら首を傾げた。


「人殺しだよ」

 

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