02.
梅鶴おじさまと千里おばさまは、榑縁から直接薬房に上がった。
「邪魔をする」
と会釈をしたおじさまの声は、無理やり気管を絞って出したように低くかすれていた。
薬房に満ちた不穏な気配を読み違える者はいなかった。
紫乃は、二人に座布団を出した後、敷きっぱなしで平べったくなっていた座布団の上で膝を揃え背筋を伸ばした。
『万象丹』を調薬するときには呼んでくれと言い残し、慈風坊さまと飯綱さまは中津宮へとお帰りになった。
「龍神庵銀子殿」
対峙した梅鶴おじさまが仰々しく呼びかけてきた。
「御身を龍神庵現当主と見込んでお頼みしたき儀があり申す。恥を忍び、『流星丸』の調薬を弁天楼に任せていただきたい」
「え!」
紫乃は思わずといった体で声を漏らしたが、あたしにはこの話の展開は何となく読めていた。
驚きは小さい。
御大層な格好や物言いは、碌でもない話を聞かせる前置きであると相場は決まっている。
それにしても『龍神庵現当主』ときたか。あたしが白金兄さまの言葉尻を捉えて勝手に名代を名乗っていたのを、今度は梅鶴おじさまにつけこまれた形である。
目を閉じ、考え込んでいるふうに見せかける。
その実答えは既に決まっている。
こちらとしても考える格好を見せているだけだ。
暫しの時間を措いてからあたしは答えた。
「お断りします」
問題はこの後である。
梅鶴おじさまと千里おばさまとが雁首揃えて『代わりに調薬させろ』だなどと芸のない申し出をしにきただけとは到底考えにくい。
果たして出てくるのは鬼か蛇か。
梅鶴おじさまは須臾の間目線を床に落としてから、あたしの顔を正面から見据えた。
「では、霊薬の秘訣を伝授させてくれ」
その言葉はあたしの心臓を一瞬止めた。
「この意味が分からぬ御身でもあるまい」
誰が決めたか、薬の世界には定めがある。
霊薬師とは、ただ霊薬を調薬できる者のことをそう呼ぶのではない。
自ら秘訣を見出した者のみをいう。
だから白金兄さまはあたしに霊薬の秘訣を教えようとはしなかった。
日頃『朔龍湯』の調薬に挑み、その薬種である龍涎香をどれだけ空費しようとも。
大黒審判の再試が迫った今このときであっても。
兄さまはあたしに秘訣を教えようとはしなかった。
「弁天楼紫乃。おまえも聞きなさい」
梅鶴おじさまはあたしの隣に一瞥をくれた。
「白金は物心ついたときには既に悟りを開いていた。あれは特別だ。生まれながらに持っていたものが表に現れただけであったのだろう。金子は親を喪って秘訣を得た。数之進はその金子を見て悟った。金子は中学一年、数之進は二年のときだったか」
紫乃が立ち上がった。
その踏みつけた床が軋み悶える。
「わたくしたちはまだ小学生です。金子さまや兄さまが秘訣を得た歳は、まだ先です。ですのに、なのに、もうこの歳で諦めろと、そう言うのですか!」
隣で仁王立ちする紫乃を見上げる。
固く握りしめられた拳が震えている。
「それは違う。おまえたちには可能性がある。この先自ら霊薬の秘訣を得る希望を抱いてもよい」
おじさまは目をつむり、小さく首を振った。
「しかし見込みは薄い」
「……っ!」
紫乃が一歩踏み出した。
「実を言うと、金子も数之進もおまえたちくらいの歳の頃までには、幾度か霊薬の調薬に成功していたのだ。ただ、自分でも何故成功したのかが分かっていなかった。秘訣を我がものとはしておらなんだがために、調薬の殆どは失敗に終わっていた。秘訣を得るとは、自覚することである。一度秘訣を得ればしくじることはなくなる。だがな、何れ秘訣を得る者は、自覚する前からその兆しを見せるものなのだ」
あたしは未だ一度も霊薬の調薬を成し遂げたことがない。
紫乃もそうだ。
あたしたちには兆しがない。
そういうことか。
「それでも白金は賭けた。銀子が明日までに秘訣を悟る方にな。分の悪い賭けだ。それでもあいつは店の命運を賭けた。白金には誇りがある。霊薬師としての誇りだ。白金は自分の命を誇りのため投げ出せるような男だ。龍神庵を妹の誇りのために捧げることすら厭わんのだ」
知っている。
白金兄さまにはそういうところがある。
兄さまがあたしや金子姉さまを大事に思ってくれているのは知っている。
ただ、その情は世にあふれたものとは似つかぬ形をしている。
霊薬づくりは尊く誇り高いものであり、市塵に塗れる商いは下賤なものである。
兄さまのそうした価値観は、あたしたち家族への情にも表れているのだ。
「わしも待った。一縷の望みから芽が出るのを待ったのだ。おまえたちの喜びの声が届くのを弁天楼でずっと待っていた。しかし、もうこれ以上は待てない」
梅鶴おじさまは静かに首を振った。
「霊薬の秘訣は自ら悟らねばならない。本来、言葉で伝えられるものではない。自ら悟った者は皆そう考える。白金もそうだろう。金子や数之進も同じだ。口伝で啓示を受けた霊薬師はこれまでいなかった。いや、本当にただの一人もいなかったのか、それは分からん。誰も言い出さず、記録に残っていないだけかもしれぬ。自ら悟ることこそ霊薬師の資格を持つ者の証であり、人に教えられることは恥であるという暗黙の了解がある。他人より啓示を受けたと自ら喧伝する者はおるまい」
「なにが言いたいのですか?」
「分からんか。今この場でわしから秘訣を教わったとしても、おまえたちさえ言わなければ誰にもそうとは知られぬということだ」
「そんなことが、許されるとでも?」
紫乃の声が歪む。
「誰が咎めるというのだ。例え他人から秘訣を教わったとしても、誰もおまえたちを責めることはない。それにな、例え知られたところで誰がおまえたちを罰するというのか。霊薬師は自ら秘訣を得なければならないなどという法はない」
梅鶴おじさまがこの先何を言いたいのか、もう分かっている。
「咎めるのは自分の良心だけ、ということですわね」
紫乃も先を取って自ら口にした。
「……才覚に恵まれず、本来自ら悟るべき秘訣を人伝に教わったという事実を誰にも明かすなと、胸に秘めたまま霊薬師を名乗れと、店のために罪を背負えと、そう言うのですね」
「いや。そうは言わん。わしは命じない。飽くまでもおまえたちに選ばせるつもりだ。……弁天楼紫乃よ。これは龍神庵の問題だ。この場を出て行くのなら、誰もおまえを止めやしない。咎めもしない。選びなさい」
紫乃の足が小さく後退った。
僅かに振り向いた横顔が燭台の灯かりを受けて朱色に染まっているのをあたしは見上げた。
震えた唇から、噛み締めた歯が覗く。
小さな嗚咽が鼻を鳴らす。
目尻からこぼれた滴が瞬きながら首筋へと流れていく。
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