05.
白金兄さまと金子姉さまがそれぞれに場を辞し、居間に残る龍神庵の家の者はあたしだけになった。
兄さまは海の虹『朔龍湯』を調薬した。
姉さまは地の虹『弁天涙』を調薬すべく弁天楼へ向かった。
後には、空の虹『流星丸』の薬種たる天狗のひげと、龍神庵名代の責務が残されている。
ちゃぶ台に置かれた重荷を見下ろしたまま、あたしは身動きがとれなくなった。
「さて。梅鶴、千里さん。行こうかね。そろそろ大黒さまご一行に朝餉をお出しする頃合いだよ」
ずっと黙って座っていたお婆さまが席を立った。
流れるような所作で草履を履き、土間に立っていたおじさまとおばさまの間をすり抜けて勝手口へと歩いていった。
「さ、あなた」
腰を下ろしたままのおじさまの肩に、おばさまが手を置いた。
「おばさま!」
「銀子、情けない声を出すんじゃないよ!」
千里おばさまはぴしゃりと言い放ち、これからかちこみにでも出張るのかと思わせるような猛った笑みを浮かべた。
「火事場にあっては箪笥の一竿二竿軽く背負うくらいでなきゃ霊薬局の女は務まらないよ」
おばさまは小紋の袖を振り、握り拳をあたしに見せつけた。
それから僅かに、見詰めいてさえ見逃してしまうほど僅かに、おばさまは面持ちの緊張を緩めた。
「困ったら泣きついといで。端から駄目だなんて言ったら承知しないけどね。何だって教える。いつだって見守ってるよ」
やがて観念したとでもいうように梅鶴おじさまが立ち上がった。
地につき汚れた紬の裾を、おばさまが手のひらで力いっぱい叩いたが、おじさまは身じろぎ一つしなかった。
「紫乃」
席に着いたまま所在なく辺りを見回していた紫乃が、おじさまに呼ばれて背筋を伸ばした。
「おまえはここにいなさい」
おじさまは踵を返し、徐ろに歩きだした。
「霊薬作りは一人よりも二人の方がよい」
おじさまとおばさまの背中に、紫乃ははっきり答えた。
「はい」
あたしと紫乃は一度龍神庵を出て中津宮岩屋宮へと向かった。
社殿で寛いでいた慈風坊さまと飯綱さまは「やあ。ご機嫌いかがかな。僕たちは些か退屈していてね」とあたしたちを迎え入れた。
「慈風坊さま、飯綱さま。『流星丸』の調薬方、そのご教授を賜りたく、龍神庵名代銀子、伏してお願い申し上げ奉ります」
「やっぱり君は霊薬局の子だねえ。その硬っ苦しいのを止めて『慈風ちゃん』と呼んでくれたら教えて進ぜよう。あ、真の名を呼んでくれてもいいよ。覚えてるかい? 『如清風』だよ、『如清風』」
「は」
「これ、慈風」
面食らうあたしに助け舟を出したのは、飯綱さまだった。
「大概におし」
窘めなさる飯綱さまの口調は常のまま穏やかなものであったが、その底にはひんやりと冷たい秋水のような迫力があった。
「これは失敬! 僕としたことが冗談のほどを見誤ったかな。これはちょっとばかしつまらないことをしてしまったね。ごめんごめん。もちろん調薬方は教えよう。君たちとはもう約束してあるからね」
飯綱さまのお叱りも慈風坊さまにはどこ吹く風、いつも通りの調子でまくし立てられた。
寧ろ、飯綱さまに気圧されたのはあたしと紫乃の方だ。
とばっちりを受けた紫乃なんて、あたしの隣で石のように固まっている。
「それでは薬房に案内してもらえるかな。『流星丸』の調薬方をお伝えしよう。ただね、実演はできない。もちろん知っているだろうね。神は霊薬をつくれない。調薬は君らがやるんだ。一から十までね。僕らは口は出せても手は出せない。いいね」
「承知しております。それでは龍神庵にご案内申し上げます」
「鯱張ってるなあ」
やれやれと首を振る慈風坊さまと、お気に入りの紫乃にまとわりつく飯綱さまとをお連れして、あたしと紫乃は龍神庵へと向かった。
霊薬『流星丸』への挑戦。
長い一日になる。
そんな予感があった。
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