03.
暫くしてから頷き合った二人は、居間に戻り、一枚の半紙に記した答案をちゃぶ台に提出した。
半紙には漢字混じりの和歌が二首書かれている。
片方は龍神庵に伝わる和歌であり、もう一方が弁天楼に伝わるという和歌であった。
万の象之に有り
地より湧き 海にぞ溢り 空へ散る
並べて此の世は 虹の通い路
現身は 鍋(並べ)の泡沫 巡る霊
一の二の三つと 往くを数うる
「並べてみるとよく分かる。二首の歌は異口同音に同じことを歌っている。人の現身はこの世の泡沫に過ぎない。泡沫は地より海、そして空へと巡っていく魂であり、虹である」
和歌の意味を完結にまとめた後、数之進は指で一節ずつをなぞりながら解説を加えた。
「『うつせみ』は間違いない。次の『なへ』には幾つかの意味が重なっている。まず、素直に調薬器具の『鍋』を意味すると見てよい。『鍋』とは『菜』を煮る『瓮』のこと、『瓮』とは『かめ』のことだ。薬草を瓶で煮ること、つまりは『煎じる』という行為が即座に連想され得る。ここでいう『鍋』は『万象丹』を調薬する手法を示していると見てよいだろう。
次に、龍神庵の歌に現れる『並べて』との連想が込められている。弁天楼の歌の方も『並べて此の世の泡沫である』と読むことができよう。『此の世』は上にある『現身』とも結びつきが強い。さて、最後になったが『虹』との関係についても指摘しておく必要がある。紫乃、龍神庵の方の歌にある『のし』とは『虹』のことだったな」
「はい、兄さま。わたくしの持つ古語辞典にありました。『のじ』とは上代東国の方言で『虹』のことであると」
数之進は「うむ」と頷いた。
「確かめたわけではないが、紫乃の古語辞典は、恐らく越谷吾山による『物類称呼』を典拠としている。近世の方言研究書だな。『物類称呼』にはこんな記述がある」
東国の小児のじと云ひ、尾張の士人鍋づるといひ、西国にてゆふじと云ふ
「かつて『虹』は地方によって異なる呼ばれ方をしていた。東国では『のじ』、西国では『ゆふじ』、そして尾張では『鍋づる』だ。鍋の縁を地平線と見立て、その上に半円を描く様から名付けたのであろう。結論から遡っての議論となってしまうが、『万象丹』の調薬方において『虹』は欠くべからざる要素だ。龍神庵の歌でも特に強調されている。一方で弁天楼の歌には直接『虹』への言及がない。となればここでいう『なへ』には『鍋づる』即ち『虹』への連想が意図されていると見るのは強ちこじつけであると言い切れまい」
そこで一息吐き、数之進は更に和歌の下方へと解釈を進めていった。
しかし、あたしは真面目にその解釈を聞きはしなかった。
後は聞かずとも漢字さえ見れば凡そは把握できる。
もう十分だ。
数之進による解説を聞く前から、あたしの目は求めるものを見つけていた。
まずは『鍋』という単語。
それから『一の二の三つ』という記述である。
あたしの求めていた調薬方がそこにあった。
龍神庵の和歌には、『万象丹』の素材となる生薬と、それらを調薬する順序が示されている。
となるともう一方の弁天楼には、具体的な調薬の手法と割合とが伝わっているはずであると、あたしはそう推測していた。
だからこそひと目で見つけられた。
紫乃と数之進も当然見逃すはずがない。
「下の句の『一の二の三つ』は明らかに配合する生薬の割合を示している」
数之進の言葉にあたしは深く頷いた。
もうこれで全てが明らかになった。
ならば今すぐにでも調薬を始めなくては!
と、立ち上がろうとしたその瞬間、紫乃が「しかし」と逆接の言葉を口にした。
「しかしですわ。続けて結句を読みますと、もう一つの意味が見えてきます」
数之進から引き継いだ紫乃が説明を続ける。
「『往くを数える』といいますと、人が目の前を通り過ぎていくのを見送る光景が思い浮かびます。見送るのは『巡る霊』だけではありません。魂以外に人が見送るもの、それは時です」
そうか、煎じる時間!
思考から完全に漏れていた。
手のひらにかいた汗を、あたしは誰にも気づかれぬようカーゴパンツで拭いた。
どうにも気が急いていけない。
分かっていたことではあるが、紫乃と数之進による解釈は、あたしの上っ面の読み取りよりも数段、いや数十段は深い。
今すべきは二人による解釈を聞くことだ。
逸る気を抑えこむように胡座をかき直し、あたしは紫乃の説明に耳を傾けた。
「第四句の『一の二の三つ』。ここで注意すべきは『つ』です。『一の二の』ときたら『三の』と続く方が流れとしては自然ですわ。敢えてその流れを崩すのには、それだけの理由、意図があるからでしょう。ここで急に『三つ』と変じたのは、『つ』という接尾辞を付け加えての数え方を示したかったがためと考えられます。『一つ』、『二つ』、『三つ』とは近世の時の数え方です。現代とは異なり、近世では夜明けと日暮れを基準に、昼と夜をそれぞれ六等分、つまり一日を十二分割し、一単位を一刻としておりました。十二の刻には子の刻、丑の刻のように干支の名前が当てたり、六つ、五つと数詞で呼んだりしたそうです」
「一日を十二分割ってことは、一刻が二時間? だったら『一の二の三つ』っていうのは、零時から『弁天涙』を煎じ始めて、二時間目に『朔龍湯』、四時間目に『流星丸』を入れて、六時間目まで煎じ続ければ完成ってこと?」
努めて冷静に問いかけるあたしに、紫乃は首を横に振って答えた。
「いえ。十二の刻の数え方は、現代の零時や一時などとはまるで異なるものです。刻に当てる数字は、九つから四つまでしかありません。元来この数は時鐘を鳴らす回数であったと聞きます。陰陽道では奇数を陽の数、偶数を陰の数としており、最も大きな陽の数である九という数字を特別視していたとか。かつてはそうした陰陽道の法則に則り、正午には九つ、次に十八、その次は二十七と一刻ずつ鐘を鳴らしていたそうですが、これでは最大五十四回も鐘を鳴らすことになってしまうため、十の位を省略して、九つ、八つ、七つ、六つ、五つ、四つ、そして次は深夜零時ですのでまた九つ鐘を打つ、と変じました。これが六つ、五つという呼び方の由来だそうです」
「紫乃はよくそんなことまで知っている。すごいねえ」と感心する白金兄さまに、紫乃は「いえ、そんな。今調べまして」と気恥ずかしそうに顔を背けた。
今知ったというのは恐らく嘘だ。
その知識は漫画か小説で仕入れたものだろう。
紫乃が白金兄さまに弱いのは今に始まったことではない。普段の紫乃ならばもっと達者にかまととぶる。
「さて」
こほんと紫乃は小さく咳払いをしてから続けた。
「繰り返しになりますが、十二の刻の数え方は九つから四つまで。弁天楼の歌の『一の二の三つ』とは合致しません。『一つ』、『二つ』といった数え方は、一刻を更に分割した時刻の数え方を指していると見た方が適切でしょう。一刻は約二時間。時刻の単位としては長過ぎましたため、更に一刻を四等分した時刻の単位が使われておりました。この四分の一刻を数える際に用いられたのが『一つ』、『二つ』といった数え方です。世にいう『草木も眠る丑三つ時』とは、丑の刻の三つ目ですから、丑の刻のうち半分から四分の三にかけての約三十分を指し示した表現です。弁天楼に伝わる歌の第四句『一の二の三つ』は、『四分の一刻』、四分の二即ち『半刻』、そして『四分の三刻』を示します。手順でいいますと、『弁天涙』を煎じ始めてから『四分の一刻』で『朔龍湯』、『半刻』で『流星丸』を投じ入れ、『四分の三刻』で完成、ということになりますわ」
「注意しなければならないのは、一刻という時間の単位だ」
そこで再び数之進が解説を引き継いだ。
「一刻は二時間ではない。皆も承知のとおり、夜明けと日暮れは年間を通して前後に推移するものだ。夏は夜明けが早く日暮れが遅い。冬は反対に夜明けが遅く日は早く沈む。夏の間は昼の方が長く、冬の間は夜の方が長くなる。昼と夜の長さが等しくなるのは年に二回、春分と秋分のみだ。つまり、春分や秋分といった特例を除けば昼の一刻と夜の一刻とでは長さが異なるということであり、年間を通しても季節によって一刻の長さは異なるということになる。これを不定時法と呼ぶ。不定時法の一刻と、現代の二時間とは必ずしも一致しない。もちろん、例外的に一刻が二時間と等しくなる日もあるだろうがな」
数之進はそこで一度言葉を止めた。
ついて来られているかを確かめるよう皆の顔を見渡してから、数之進は説明を再開した。
「これもまた皆承知のこととは思うが、調薬は時刻や季節、月や陽の暦に大きく左右される。例えば『弁天涙』の薬種たる蓮華の夕露。これは金曜の夕方、夕星が輝く頃に採取したものが最もよいとされている。霊薬でいうと『朔龍湯』が想い起こされよう。その名のとおり、月の陰る朔日に近ければ近いほど、調薬した際の薬効は高まると聞く。もちろん俺は話で聞いただけだがな。とまれ、こうした例は枚挙に暇がない。『万象丹』も同様であろう。『万象丹』を煎じる時間は、調薬するそのときの昼夜及び季節を計算に組み込んで算出する必要があるのだ。生憎と、俺も紫乃も天文やら算術やらは不得手でな、暗算はとてもできなかった。具体的な調薬時間は後ほど改めて精緻に計算する必要がある」
口を閉じた数之進が視線を遣ると、紫乃は頷いて返した。
「まとめよう。まずは地の虹『弁天涙』『一』を『四分の一刻』煎じる。それから海の虹『朔龍湯』を『二』の割合で投入し、煎じ始めより数えて『半刻』まで煎じる。その後、今度は空の虹『流星丸』を『三』の割合で投じ、同じく火を入れてから『四分の三刻』まで煎じる。それで『万象丹』の完成だ」
数之進は、長々とした解説にそう結論づけた。
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