02.

「あなた」

 飯綱さまが優しい声音で慈風坊さまに呼びかけられた。


「おっと。分かっていますよ、飯綱さま。僕があなたのお考えを分からなかったことがありましたか? うん、あったかもしれませんね。でもそれは今じゃない。今は分かっていますよ。人と神のお話は今することではないですね。さて、君たちがどうしてあんなところで一眠りしようと思ったのかをだね、訊いてもいいだろうね?」


 人と神の話にも興味はあるけれど、神さまに求められては、それも助けていただいた御恩のある神さまに求められては仕方がない。

 あたしたちはここに至った経緯を説明申しあげた。


「なるほど。道に迷ったとき、より高いところを目指そうとしたその判断は悪くはなかったね。間違いではなかった。しかし考えが足りていなかったと言わざるをえないぜ。高いところを目指すか低いところを目指すかというのはね、判断の目安でしかないんだな。君たちはだね、もう少し先のこと、目的を考えるべきだった。より高きを目指すのは何のためかな?」


「山頂を目指すため、です」

 紫乃の言葉尻からは些か自信を欠いた様子が窺えた。


「おっと、この答えは少し予想外だったよ。では何故山頂を目指すのかな?」


「山は山頂に行けば行くほど狭く、裾野に下れば下るほど広くなります。山頂に近いほうが登山道に出やすくなります」


「なるほど。君はある程度までは正しく考えているね。そうだね、一番大事な目的から遡って考えてみるとしよう。一番大事なのは生きて山を下りることだ。そのためには? 整備された登山道に出られれば有利だというのは分かっているようだね。そこまではいいさ。でもね、山頂に近づけば登山道を見つけやすくなるというのはどうだろうね? 山は広い。山頂に近づけば面積は狭くなるというけどね、君は先の尖った鉛筆でも想像しているのかな? 高尾山はそんな尖っているかな。どうだい? 無理があるだろう。登山道に出るため高きを目指す。それは正しい考え方だ。ただ、二つの命題のだね、間の埋め方に問題があるといえるな。高きを目指すのはだ、尾根にある登山道を見つけるためだよ。山には尾根と沢があるというのはもちろん知っているだろう? カーテンのドレープを想像したまえ。膨らんでいるところが尾根、窪んでいるところが沢だ。登山道は尾根にある。何故か? 沢は歩きにくく、そして危ないからだ。もちろんそうさ。水は低きに流れる。文字通り、沢には水が流れる。周りより低くなっているからね。山には幾本も沢が走っている。元来自然は均一ではない、というのは感覚として理解しているだろう。より脆いところが水で削れ、低くなったそこを水が流れる。するとだ、ますますそこに水が集まる。こうして山には沢ができる。そうしてだね、流れる水に洗い出され、沢は岩だらけになる。傾斜も強くなる。いいかい、もう分かっただろう? 誰がそんなところを歩くというんだ? 登山の世界では沢登りという言葉がある。聞いたことがあるだろう? でもね、尾根登りという言葉はない。少なくとも僕は聞いたことがないな。考えてみたまえ。何故沢登りなどという言葉があるのか。それはだ、沢を登るという行為が特殊なことだからなんだな。敢えて沢を登る。だからこそその行為に名前がつくのさ。一般的な行為にはだね、特別な名前はつかないんだよ。そう、人は尾根を登るものなんだ。さて、昨夜君たちがいたのは小さなピークだった。ピークというのは他よりも高くなった点のことだ。高きを目指すのは山頂を目指すためである。そう定めてしまっては、どんな小さなものであれ他より高くなったピークから身動きが取れなくなってしまうだろう。君たちはだね、もう少し歩くべきだったんだ。もちろん、尾根に沿ってだ。君たちが座り込んでいたあのピークから、尾根沿いに鞍部を一つ越えたところに登山道があったんだよ。鞍部というのはだね、尾根の窪んだところを馬の鞍に見立てた呼び方だ。日が暮れた山の中で道を失うというのは極限状態だ。集中力が限界まで高まる。すると視野が狭くなる。一旦でもね、山頂を目指すことを考えてしまったら、もうどれだけ少しだって斜面を下りることができなくなる。これは僕よりも、実際に体験した君たちのほうがよほど身に沁みてよく知っていることだろう。目的の定め方がよくなかったんだ。登山道を見つけるため、山頂ではなく尾根を目指す。それならよかった。山頂は点で、尾根は線だ。そう考えていたらだね、一度ピークに出た後でも尾根沿いに歩くことができた。線の上を移動して登山道を見つけることができただろうね。まあ、これは結果論だ。聞き流してくれても構わないよ」


 滔々とした慈風坊さまのお説教が終わると、社殿には静寂が下りた。


「わたくしが悪いのです」

 暫しの沈黙を破ったのは紫乃だった。


「まだ言うの? あたしはあんたに任せたの。だからこれは二人の責任だって言ってるじゃない」


「ああ、君たちは姉妹かい。君の方がお姉さんかな」


「違いますわ!」

「違います!」


 慈風坊さまの突拍子もない仰りようを、思わず強い口調で否定してしまった。

 それも致し方ない。

 殊に「お姉さん」と指さされたのが紫乃とあっては我慢できようはずもない。

 確かに、身体は一回り紫乃の方が大きい。

 それでも姉妹はないだろう。


「そうなのかい? では君たちは普段喧嘩などしない仲良しさんなのかな?」


「違います!」

「違いますわ!」


 神さまに対して失礼であるとは承知してはいる。

 それでもあたしも紫乃も我慢はできなかった。


「その割には気が合っている。合い過ぎている。君たちはひょっとしたら相性が悪いのかもしれないね」


「あたしと紫乃の相性はともかくとして、気が合うのに相性が悪いとはどういうことですか?」

 慈風坊さまの不可思議なご発言に、あたしは少しだけ落ち着きを取り戻した。


「だってそうだろう。意見が同じならば二人いる必要がない。なんとなれば、危機に際して二人仲良く死ぬだけだからね。いっそ一人のほうがましなくらいだ。そしたら死人は一人で済む。なぜ君らは二人で山に来たのかな? 二人で死ぬためかい? それなら僕はもう何も言わないぜ。しかしね、もしもだよ、今隣にいる彼女の役に立ちたいというのなら、君たちはもっと喧嘩をしなくてはなるまいね。なぜ人は一人で生きられないか知っているかい? 一人では真っ直ぐ歩けないからだよ。でもね、これが実に面白いんだが、自分が真っ直ぐ歩いているかは分からなくてもね、他の誰かが曲がっているのはすぐに分かるんだな。人の欠点や過ちには誰もが目聡い。例えば、ほら、自分の美点と隣にいる彼女の欠点、どっちを多く挙げられる? 答えなくてもいいぜ。僕はその答えをもう知っているからね。とにかくだ。せっかく君のとなりに連れ立つ友がいるならね、そいつを大事にしない手はないってことだ」


「友達じゃあありません」

「そうですわ」


「おやおや、君たちは実に気が合うね。いつも意見が合うじゃないか」


 あたしが紫乃の方を見ると、紫乃もこちらへと首を向けるところだった。

 おかげで顔を見合わせることになってしまい、慌てて顔を逸らした。


 どうにも調子が出ない。

 いきなり喧嘩しろと言われても困る。

 いや、慈風坊さまが仰っているのはそういうことではないのだろうか。


「君たちは子猫だ。まだじゃれていていい歳だよ。これから正しい喧嘩の仕方を学んでいけばいいさ」


「あら、喧嘩の仕方など学ばくとも、いずれ知ることになりますよ」

 飯綱さまは慈しみを込めた口調で宣った。


「本当に命が危うくなったら人は獣になります。隣人を食らうくらいなんでもありません。わたしは人のそういうところが好きですよ」

 飯綱さまは手を打ち合わせ、烏面の首を可愛らしくお傾げになった。

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