第七章 天狗のひげ

01.

 ぱち、ぱち。

 弾けるような音がする。

 暖かい。

 焦げるような、燃えるような匂い。

 火だろうか。


 目蓋が重い。

 うまく開かない。


 少しずつ力を入れると、目に色が映り始めた。

 目の前には真っ赤な憤怒の相があった。


「ぎゃあああああ!」


 咄嗟に懐に手を遣るが、そこにそろばんは無かった。

 普段なら胸に提げているのだが、登山の途中で流石に邪魔になったため背嚢にしまったのだった。


 手許に武器のない心細さに思わず後退ると、柔らかいものに手が当たった。


「……銀子? きゃああああ!」

 その柔らかいもの、紫乃も金切り声を上げてあたしにしがみついた。


「おはよう、女の子たち。今日も元気だね。いや、君たちのいつもなんて僕は知らないけれど、きっといつも今みたく元気なんだろうと、そう思っただけさ」


 ぺらぺらとまくし立てるその人は、朱塗りの顔にぎょろりと剥いた目、針金のような真っ黒の眉とひげ、そして麺棒のように高く太い鼻をしていた。

 その昔絵本で見た絵図そのままの天狗さまであった。


「君たちは天狗に会うのは初めてだな? もしかしたら神に会うのも初めてなのかもしれないね。安心しなよ。神は人をとって食ったりはしない」


 天狗さまは赤ら顔の面を押し上げ、口許をお見せになった。

 にかっと笑う口に生える歯並びは人間のそれであった。


「まあ、ときに謀ったり殺めたりはするかもしれないけれど、それでも食べたりはしないぜ。神は霞を食べるものだからね。いや、どうだろうな、もしかしたらそれでも人を食べる神がいるのかもしれないな、僕が知らないだけで。人は食べたらおいしいのかな? 飯綱さま、ご存知だったりしますかね?」


 振り返りになった赤ら顔の天狗さまの向こうから、今度は烏面を被った天狗さまが姿をお見せになった。


「獣は賢しければ賢しいほどよい味がするものですよ。ご安心なさいな。今はあなたたちを喰らうたりはしないから」


 飯綱さまと呼ばれた烏面の天狗さまがお発しになられたのは、言行にそぐわぬほど穏やかで優しい女性の声だった。


 お二方は山伏めいた装束を身におまといになっていた。

 赤ら顔の面と烏面の上には頭巾を被り、鈴掛に提げた袈裟に白い梵天を連ね、括袴の下には脚絆が覗いている。


 飯綱さまがお運びになられたお茶をいただきつつ、あたしたちは赤ら顔の天狗さまのお話を伺った。


 今いるここは高尾山薬王院の社殿だそうだ。

 板張りの床と壁、ところどころに立ち並ぶ燭台の灯かりは、確かに江ノ島の神社、その社殿を想い起こさせた。


 一段高くなった内陣は綺羅びやかではあるが空っぽである。

 それはそうだ。

 その座におわすべきお方たちは今目の前にいらっしゃるのだから。


 湯呑みをそっと置いた紫乃が、ささっとちゃぶ台から後ろへ下がり、床に伏した。


「……申し遅れました。わたくし、弁天楼紫乃と申します。相模の国江ノ島より参りました。この度並々ならぬご厚意を賜りましたこと、感謝の念に堪えません」


 あたしも慌ててその隣に並ぶ。


「同じく江ノ島より参りました、龍神庵銀子と申します。危地よりお救いいただきまして誠にありがとうございました」


「やあ、弁天楼に龍神庵ときたか。これはこれは、懐かしい名前だ。そうか、君たちは霊薬師か」


「いえ、わたくしどもは霊薬師ではございません。未熟であります故、霊薬を調薬することはかないません」


 赤ら顔の天狗さまは首をお傾げになった。


「そうなのかい。しかしだね、君らはもう立派な霊薬局の人間だね。その仰々しい喋り方に御大層な感謝の仕方ときたら、これは神職か霊薬師かと相場は決まっている。君たちと話していると、背中がむずがゆくなっていけない。神への感謝なんてそんな気を張るもんじゃなくていいのさ。ただ賽銭箱に気持ちを投げ入れてね、ちょっと手を打ってくれればいいんだよ。それだけでいいんだ。話し方もね、もう少しだね、簡単な方がいいな。僕は回りくどいのが好きじゃないんだ」


 天狗さまは指を振ってお見せになった。


「しかしそうか、江ノ島の霊薬局の娘御たちだったとはね。これは驚いた。しかしある意味得心もいったな。道理で珍しいものを持っているわけだ」


 赤ら顔の天狗さまは紫乃の背嚢を指でお示しになった。


 その指を見て「もしかして」と呟いた紫乃が取り出したのは、指先から肘くらいまでの長さの朱塗りの棒に、文字通り鈴なりにたくさんの鈴が付いた、小さな錫杖だった。


「紫乃、その錫杖、どうしたの?」


「うちの物置にありましたの。お婆さまがこれを持って行けと。ただ、この錫杖はですね……」

 紫乃が振っても、その錫杖は音を立てなかった。


「それは天狗が意思疎通を図るための錫杖でね、振ると人には聞こえぬ音が遥か遠くまで届くんだ。昨日の夕方からね、君の鞄の中で鳴っているのがずっと聞こえていた。天狗の錫杖を持つものは限られているからね、さて何者が訪ねてきたのかと楽しみにしていたんだけど、待てど暮らせど一向に姿を見せやしない。終いには日が暮れて音が鳴り止んでしまった。それで気になってね。二人して夜の散歩に出掛けてみたら女の子が二人山の中で眠っているのを拾ってしまった、という訳なのさ」


「あなた」

 飯綱さまが呼びかけると、赤ら顔の天狗さまは、面の額を手のひらでお打ちになった。


「おっと、そういえばそうでございましたね。まだ名乗っていなかった。僕としたことが、これは失礼をしたね。こちらにおわすお方はね、飯綱三郎さまだ。ご神体は信州にあらせられるのだけどね、故あって今はこの薬王院にご勧請申しあげている。しまった、あんなことを言っておいて僕がこんなご丁寧な言葉遣いをしていたら世話がないね。ついね、僕も元は神職だったものだからさ。そう、僕は高尾山慈風坊というんだがね、昔は人間だったのが、ついうっかり神さまになんかなってしまったんだな」


「人が神さまになれるんですか!」

 思わずお言葉を遮ってしまった。


「おや、知らなかったのかい? これは驚いたな。君たちは霊薬局の人間だろう? まだ見習いといっていたかな? ふむ。君たちの親御さんやお師匠さまは君たちに隠しているのかな? わざわざそんなことをしなくてもいいと思うのだけどな。何しろ僕のお師匠も、元は異国より日の本に参られた人間だったんだからね。僕の師匠は岩本坊さまという。おや、知っている? そうか、君たちは江ノ島だったな! これは驚いたな! 仰天だよ。いやまさかだよ。自分の師匠がこんな年若い女の子たちにまで知られているというのは実に光栄なことだ。鼻が高いよ。僕もいずれそうなりたいと思うね。ともかくだ、もう何百年前のことになるやら、人間だった僕は岩本坊さまに弟子入りしたわけなんだな。僕の生まれは海の向こうの新大陸でね。真の名を『如清風』というんだ。この島国に渡ってきてね、とある衝撃的な事件を経て、神になりたいと思い立ったんだ。そんな簡単に真の名を明かしてもいいのかって? 構いやしないさ、隠し立てするようなことじゃない。いつでも真の名前でを呼んでくれて構わないよ、僕はね。ただ、君たち自身のことはもっとよく考えたほうがいいかな。生涯にそうそうあることじゃないからね。え、真の名は明かすのに顔は隠すのかって? これは手厳しいね。面を被るのは天狗としての作法というか矜持というかだね、まあ、大事なことなんだ。君たち仰々しく名乗りを上げるのと似たようなものかな。おっと、人と神についてはね、言っておかなくちゃいけないことがあるんだ。実はね、人が神になるのは、そうそう珍しい事でもないんだぜ。僕の兄弟子に巨福山半僧坊という天狗がいるんだがね、彼も元は海の向こうからやって来た人間でね、真の名を『安里』という。僕よりよほど長く天狗をやっていて、師のもとを離れてからは、人であった頃身を寄せていた北鎌倉の建長寺に篭っている」


「え!」

 今度は紫乃が声をあげた。


「おや、知っているのかな」


「はい。つい先日、学校の遠足で通りましたの。鎌倉を囲む山を巡る天園ハイキングコースの入り口が、その建長寺でした。確かに、本堂の裏手、山の麓には半僧坊という建物がありましたわ」


「そうか。君たちの江ノ島は鎌倉の近くだったね。僕らは思わぬところで縁が深いのかもしれないね。まあ、訪ねたところで半僧坊は招じ入れてはくれなかっただろうな。彼は人との付き合いも神との付き合いも、他の誰より億劫がっていてね、僕ですらもう何十年も彼には会っていない。何しろ神在月にも出雲に顔を出さないくらいだ。数年に一度手紙のやり取りをするんだが、いつも僕は彼から返事が来ると驚くくらいだ。ともかく人と神というのは、君たちが思っているほどにはね、遠いものではないんだよ。何しろ僕も、僕の師匠も、兄弟子だって、人間から神になったくらいだからね」

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