03.

「順を追って話そうかね。谷川屋があった時分、中津宮には岩本坊さまがいらっしゃった。そのご加護のおかげで、島には天狗のひげと呼ばれる薬草が生っていた。これが『流星丸』の薬種だよ。谷川屋代々の霊薬師たちは、天狗のひげを採取し、『流星丸』をつくっていた。もちろん朔龍湯、弁天涙もだよ。でもね、今から二百と七十念も前のあるとき、谷川屋の時代は終わりを告げたんだ」


 お婆さまはそこで一呼吸、間を措いた。


「岩本坊さまが江ノ島から出雲へと上がられ、中津宮は空座となった。そして谷川屋は弁天楼と龍神庵とに分かれた。どっちが先でどっちが後なのか、はっきりとはしないけどね、近い時期に起きたのは確かだよ。岩本坊さまが江ノ島を去られたことで、それまで島に自生していた天狗のひげは失われた。最初は人の手で殖やせないもんかと随分骨を折ったみたいだけどね、結局ダメだった。そうすると、いつの間にか『流星丸』の調薬方も失われてしまったんだよ。どんなに有り難い調薬方も薬種がなかったら無用の長物さ。もしかしたら、店が分かれるときのごたごたもあったのかもしれないねえ」


「お婆さま。どうしてお店は二つに分かれてしまったのでしょう?」


 紫乃の疑問は、あたしも胸の裡に抱いていたものだった。

 二百年以上も昔のことであるし、これまで深くは考えなかったが、こうして昔話を聞いていると、どうしたって気になる。


「競争させるためだった、と聞いたことがあるよ。わたしのお爺さま、あんたたちのひいひいおじいちゃんからね。弁天楼と龍神庵、妙に対照的だと思ったことはないかい? 片や弁天さまのご加護の下、島の入り口辺津宮の参道でお客様を迎え、大地の豊かな力を宿した薬を商うお店。片や龍神さまのご加護の下、奥津宮の脇に店を構え、海原の恵みを孕んだ薬を商うお店。名乗っている家名だってそうだよ。うちの当麻という名字は『とば口』に由来しているんだ。それに、古い言葉で『トマ』というのは沼を指したらしいよ。これは弁天沼のことだろうね。お銀。おまえの方の沖野はね、『奥の』から来ているんだよ。もちろん、龍神さまのおわす『沖』にも由来しているね」


「言われてみれば、確かにうちと龍神庵はことごとく対照的ですわね。最初から意図してのことだとしたら納得です」


 紫乃は得心いったとばかりに頷いているが、あたしはどうにも引っかかりを覚えていた。


「ねえ、競争させる意味ってあるの? 一つの大きなお店を二つに分けるのって、効果より弊害の方が大きくない? 経営の効率が悪くなりそうだし、島全体で見たら競争力も落ちそうなんだけど」


「そうさね。お銀の言ってるのは正しいと思うよ。だけどね、それでも分けることには意味があるんだよ。谷川屋は立派になり過ぎた。日の本一の霊薬局と呼ばれていたし、その称号は伊達じゃなかった。谷川屋には競う相手がいなかった。一番の位にあぐらをかいていたら落ちるばかりだ。手の届くような直ぐ側にね、競争相手が欲しかったんだよ」


 お婆さまは紫乃とあたしの顔を順々に見て静かに笑った。

 隣に座る紫乃の顔をちらり覗き見ると、紫乃もちょうどこちらに目を向けていて、視線がぶつかってしまった。


「……谷川屋って、そんなにすごかったの? 天下一って流石に言い過ぎなんじゃない?」

 気恥ずかしさをごまかすため、あたしは話を少しずらした。


「いいや。掛け値無しに日の本一だったよ。他の霊薬局からは一歩も二歩も抜きん出ていたのは間違いない。何しろ、谷川屋はその薬籠中に四つもの霊薬を携えていたんだからね」


「ええ!」

「そんなに!」


 お婆さまは誇るように背筋を伸ばして頷いた。


 今現在、我が国にある霊薬局は十と二つ。

 何れの店も、それぞれたった一つの霊薬を店の代名詞として掲げている。

 二つ以上の霊薬を売りに出している霊薬局はない。


 たった一つの霊薬に精魂傾けてやっと、霊薬局の証たる蒲の穂鉾を守ることができようというもの。

 そして世には、一つの霊薬すら形と成すことができず大黒審判の狭き門に弾かれ続けている霊薬局未満がごまんと溢れているのだ。


 霊薬を四つも抱えるなど尋常ではない。

 当時の霊薬事情など知らないが、日の本一という称号もおそらくは過言ではなかったのだろう。


「……ちょっと待って。四つ?」

 足りない一つは、もしかして。


「地の虹『弁天涙』、海の虹『朔龍湯』、それに空の虹『流星丸』」

 確かめるように指折り数える紫乃。


 あたしは残りの一つを知っている。

 いや、これから知りたいと思っている。

 その名を。

 そして調薬方を。


「谷川屋には、もう一つ霊薬がありましたのね?」

 紫乃の問い方は慎重だった。


 真実へと続く細い道は峻険な崖の上に伸びており、一度でも踏み外したらもう二度と途上には戻れなくなるとでも思っているような、慎重に過ぎるくらいの問い方だった。


 紫乃だってもちろん気づいているのだ。

 残りの一つが、あたしたちの求めてやまない霊薬の方剤であると。


「これだよ」


 お婆さまは、龍神庵に伝わる和歌を記した筆記帳を差し出し、和歌の右に書かれた文言を指差した。


   万のかたち(?)之に有り


「正しくは、こう書く」


   万の象之に有り


「『かたち』はこう書くものでしたのね」


「そうだよ」

 お婆さまは内緒話をするように小さく開けた口であたしたちに語った。

「この『象』は『かたちあるもの』という意味だ。造化といってね、この世のかたちあるものは全て神さまの御手によってつくられたんだよ。地、海、空と人の魂はそれぞれのかたちあるものに溶け合いながら巡っていく。その大いなる巡り路の全てがこめられた霊薬。それが谷川屋の至宝『万象丹』だよ」


「……『万象丹』」

 紫乃が小さな声で呟いた。


 明らかに気圧されている。

 無理もない。

 三百年もの昔にあった日の本一の霊薬。

 この世のかたちあるもの全てがこめられた霊薬。

 谷川屋の至宝。

 こんな御大層なお言葉を並べられたら誰だって中てられる。


 だけど、あたしは違う。

 話の規模に目眩を起こしたりはしない。

 『万象丹』は飽くまでも手段だ。

 その由緒は些事である。


 大事なのは、『万象丹』を調薬すること。

 そして大黒審判で認められることだ。


 もちろん、『万象丹』という名前や、世間さまから受ける評価について知れたのは悪いことではない。

 目標は明確な方が動機を強く保てるし、『万象丹』は百五十点満点をいただけるほどの霊薬であるという目算を立てることができた。


 しかし、それだけ知ることができればもう十分だ。

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