02.

 紫乃の部屋のすぐ隣、梅鶴おじさまと千里おばさまの寝室を覗いてみると、そこには床が敷かれており、おばさまが臥せっていた。

 しかし、お婆さまの姿は見えなかった。


 寝ているおばさまを起こさぬよう、静かに階段を下り、一階のお婆さまの部屋の襖に声をかけると「はい」と返事があった。


 正直、お婆さまに霊薬の秘方のことを話す覚悟は固まりきっていなかった。

 『それしかないと思ってた』などと言ってはみたものの、やはり龍神庵の秘伝をあたしが勝手に明かしていいのかという躊躇いがあった。


 紫乃を相手に張った見栄があたしの背中を押し、お婆さまのいつも通りの返事があたしの手を引いた。


 これでいい。

 今は考えなしの勢いであっても動かなくては始まらない。


 お婆さまの部屋は日当たりのよい六畳ほどの和室で、薄ぼんやりと光るような桐の箪笥や鏡台が壁際に並び、部屋の真ん中には小ぶりの文机が置かれていた。


 お婆さまは「おやおや」と呟き、押し入れから引っ張りだしたお座布団にあたしと紫乃を座らせた。

 朱色のお座布団は下ろした腰が沈み込むくらいに分厚く、表面はさらさらと涼やかな触り心地がした。


 それからお婆さまは黙ったままお茶とお煎餅を出してくれた。

 温めのお茶で口を潤してから、あたしはこれまで考えたこと、調べたこと、見つけたものについて話をした。

 大黒審判のこと。

 霊薬の方剤のこと。

 味醂のこと。

 母さまの料理手帖のこと。

 その中に見つけた和歌のこと。


「……これが、霊薬の秘方よ」


 和歌を書き写した筆記帳を文机に開いて置くと、お婆さまはちらりと目を遣ってから、あたしの顔へと視線を戻した。


「お銀。これはそう易々と他人に見せていいもんじゃないね」


「いいの。もう紫乃にも見せてるし。昨日兄さまから言いつかったの。『店のことは一切任せた』って。今はあたしが龍神庵の名代よ。そのあたしの判断」

 筆記帳を前へと差し出す。


「お婆さま、これを見てください」

 お婆さまは肩をすくめて笑った。


「先に言っておくよ。これを見ても、わたしは弁天楼の秘方を教えたりはしないからね」


「お婆さま!」

 紫乃が非難の声を上げる。


「うちの当主は梅鶴だ。わたしも、お紫乃も、責任ある返事はできないよ」


 小さな呻き声を残し、紫乃は引っ込んだ。


「結構よ。今は、弁天楼の秘方よりも他に知りたいことがあるの」


 あたしが真っ直ぐ見返すと、お婆さまは「仕方ないね」と呟き、文机の上に置いてあった眼鏡を掛けた。

 そして、和歌の書かれた筆記帳を手に取った。


「……そうかい。これが、龍神庵の」

 筆記帳に目を落としたお婆さまが、思わずといった風情の声を漏らした。


「龍神庵に伝わっているその和歌は、霊薬の秘方のうち素材となる生薬を示すものだわ。あと、調薬する順序もね」


 素材となるのは地の虹・弁天涙と海の虹・朔龍湯、そして空の虹と呼ばれる未知の霊薬である。

 これらを地、海、空の順に用いる。

 そう解釈できる。


「弁天楼には、具体的な調薬の手法と、配合する割合が伝わっているはずよ」

 不確かな推測を、敢えて言い切る。


 だが、その発足の効果は無かった。

 お婆さまは相も変わらず静かに笑顔を浮かべており、そこからは何も読み取ることができなかった。


 不発に終わった発足はさっさと諦め、あたしは話を本題へと移すことにした。


「今知りたいのは、この霊薬の素材となる空の虹について。その正体が分からないんじゃ、その先の手法や割合が分かったところで意味ないわ」


 お婆さまは、お湯のみをゆっくりと傾けてから、あたしと紫乃の顔を見渡した。


「……昔話をしようかね」


 そして話を始めた。


「おまえたち、弁天楼と龍神庵が昔は一つの店だったってことは知ってるね? そう、谷川屋だよ。初代谷川常安は越後からこの江ノ島にやって来た。そして、この島におわす三柱の神さま方のご加護の下、大黒審判の狭き門をくぐり抜けて霊薬局、谷川屋を開いたんだよ」


「三柱ですの?」


「そう。弁天さま、龍神さま、それに天狗さまとね。その時分、中津宮には空を自在に舞う天狗さまがいらっしゃったんだよ。その名を岩本坊さまと仰った」


「え、それって!」


「江ノ島一の旅籠、岩本院はね、神さまのお名前を拝借しているんだよ。元々は中津宮岩屋宮の惣別当だったのを旅のお宿に改めたのが岩本院本館だ。惣別当というのは分かるかい? 遠方よりお出での参詣客や神職さまにお泊まりいただく宿坊のことだよ」


「お婆さま。天狗さまは空を舞うって」


「そうだよ。かつての江ノ島には、天狗さまのご加護を受けた霊薬があった。空の虹とはこの霊薬のことだよ。名前は『流星丸』」


「薬種は? 調薬方は?」

「どうして今は失われてますの?」

 あたしと紫乃が揃って身を乗りだすと、お婆さまは両手であたしたちの頭を撫で、お座布団へと戻らせた。


「何だかこうしてると、おまえたちの小さかった頃を思い出すよ。昔話をするときはいっつもこうだった。『どうなったの!』『それでどうしたの!』って、二人して先をせがんでねえ。おまえたちは昔っからせっかちで利発だったよ」


「お婆さま、今そういうのいいから」

「そのくらいで勘弁してくださいまし」

 楽しそうに笑うお婆さまには、あたしも紫乃も全く以て敵わない。

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