10.
「お待ちなさいな!」
駆け出そうとしたあたしは紫乃に襟首を掴まれた。
「先にお食事! 食べられるときに食べておきませんと。腹が減っては戦はできぬ。まだこの先何があるかわかりませんのよ」
「……まあ、それもそうね」
あたしを食卓に着かせ、紫乃はコンロ台の前に戻っていき、消していた火を再び点した。
手空きになったあたしが背中越しに話しかけると、紫乃は手を動かしながら答えた。
「ねえ。何でこんなに和歌について詳しいの? 私立の小学校だと授業でこんなのまでやるわけ?」
「いいえ。これは趣味です。最近、源氏物語を読んでまして」
「またあれ? 漫画とか小説の影響?」
「ちが! ……わなくはありませんけど。いいでしょう、別に」
一度はこちらを向いた紫乃が、すぐにまた顔を背ける。
「他人の趣味にまでけちつけないわよ。薬の勉強しろとは思うけどね」
「わたくしの勝手ですわ。それに、古典の知識のおかげで短歌が読めているのですから、感謝してほしいものです。銀子なんて最初『これは日本語じゃない』とまで言い切っていたじゃありませんの」
「はいはい。感謝してますよ。でもこの短歌もさ、最初から漢字使ってくれてればもうちょっと分かりやすかったのにね。母さま、漢字苦手だったのかな?」
「熱い風評被害ですわね! おばさまは受け継いだ文章をここへ書き写しただけでしょうに。この歌は古来よりこの形で受け継がれているのでしょう。和歌は平仮名で書くものと決まっておりますの」
「何で?」
ごほん、と紫乃はわざとらしく咳払いをすると、こちらへと振り返った。
「元来、歌というのは心の動きを口から発したものであり、文字で記し形に残されるようになったのは、歌が生まれてよりずっと後になってからのことでありました。今を遡ること千と三百年余、上代には大和言葉と呼ばれる口語が用いられておりましたが、この大和言葉には対応する書き言葉、文字がありませんでしたの。一方で、中国伝来の書き言葉である漢字は既に我が国にも伝わっておりましたが、漢字を連ねて歌とする漢詩は、当然のことながら漢語の文法に則ったものであり、日本語に読み替えるには書き下しという定型的な法則に則った操作が必要でした。漢語を母語とするのであれば、心の動きの細微までを表すのに漢詩で事足りたでしょうが、常日頃には大和言葉を口にしている我が国のの方々が歌として感動を表現するのには、異国の言葉である漢詩も、定型的な法則のある書き下し文も、役者不足であると言わざるを得ませんでした。そこで上代の方々は、口から発する歌を能うる限りそのまま文書に残すため、大和言葉の一言一言に、借りてきた文字である漢字を仮名として当てたのです。この万葉仮名の発明により、上代の方々は自分たちの口にする言葉で! 自由に! 心の動き、傾き、揺れ、色、音、そして命を表現し、それを形に残せるようになりました! その喜びの何たるやは歌集の表題にても高々に謳われておりますのよ! 万の言の葉集めたり! 嗚呼、何と素晴らしきかな万葉仮名! 時が下り、難解な漢字で書かれた万葉仮名が省略され平易な平仮名にその形を変えようとも、心の機微を万の言の葉にて歌わんとする心持ちだけは失われることなく、今を生きるわたくしたちにまで受け継がれてまいりましたのよ! さあ、これでお分かりになりましたでしょう! 和歌は平仮名で書くものと決まっておりますの!」
「あ、そろそろお出汁いいんじゃない?」
紫乃があたしの頭を手のひらで引っ叩いた。
「何すんのよ!」
「……銀子。自分はあれだけ長々としゃべっておきながら!」
「あんただってあたしの話聞き流してたでしょ!」
真っ正面から睨み合うあたしと紫乃。
目を逸らしたら負けだ。
負け、なんだけど。
「……やめよっか。時間の無駄だわ」
「そうですわね」
あたしが息をついて目を逸らすと、紫乃も大人しく引き下がった。
「さ、仕上げますからおどきなさいな。早くいただきましょう」
紫乃が拵えたのは四人前のお味噌汁と根野菜の煮っころがしだった。
母さまや金子姉さまの味付けよりは少しだけ塩気が強く、たまにいただく弁天楼のお婆さまや千里おばさまの味付けによく似ていた。
白飯がないのが残念だった。
二人分の食器を水に浸けた後、紫乃は残る二人前を丼いっぱいに盛りつけ、白金にいさまが籠もる薬房の前に置いた。
それからあたしたちは龍神庵を出て、弁天楼へと向かった。
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