07.
紫乃はボウルに醤油と味醂を入れてから、小さなスプーンで合わせ地をすくい、口許へと運んだ。
それから首を傾げ、今度は醤油と味醂それぞれの味を試した。
「どうしたの?」
「……この味醂、塩気が足りませんわね」
席を立ち、流しの前に歩み寄る。
隣に立つと、紫乃は味醂を僅かに乗せたスプーンをあたしに差し出してきた。
それを口に含む。
「こんなもんでしょ。いつもの味よ」
「そうですの? うちでもお婆さまが味醂をつくっていますが、そちらはかなりの塩気がありますわ。弁天楼と龍神庵とでは伝わっている製法が違うのかしら」
「あ」
紫乃の言葉が耳の奥に届いたその瞬間、あたしの脳裏にとある映像が浮かんだ。
所はここ。
台所。
時は過去。
遠い昔。
食卓が高い。
あたしの背が低い。
椅子によじ登る。
現れる優しい顔。
母さま。
手には筆。
卓上には手帖。
脇には黄ばんだ紙束。
虫食い。
千切れそうな綴紐。
あたしが何か言う。
母さまが応える。
かすれた声。
そこに重なる紙束のような、かさかさの。
このときもう、母さまの喉は。
肺は。
文脈を失った言葉の断片だけが甦る。
『龍神庵』『元は』『谷川』『一つの』『弁天楼』『分かれて』『味』『うちの』『お酒』『伝える』『お漬け物』『味醂』『霊薬』『朔龍湯』『昔は』『もっと』『秘密』『今は』『弁天楼にも』『ばらばら』『いつか』『白金お兄ちゃん』『いざ』『普段は』『金子お姉ちゃん』『のんびり』『銀ちゃん』『しっかり者』『お手伝い』『わたしは』『もう』……
母さまが咳をする。
もういいから!
しゃべらないで!
そんなに、苦しそうに。
でも、今のあたしは、もっと母さまの話を……。
「銀子?」
あたしの名を呼ぶ声で、意識が引き戻された。
ところは同じく台所。
目の前には割烹着姿の紫乃。
心配そうにあたしの顔を覗きこんでいる。
あたしは紫乃を押しのけ、流しの下の収納に頭を突っ込んだ。
「どうしましたの!」
批難と困惑の入り混じった声を上げる紫乃。
「ねえ、料理手帖見なかった? そんなに古くなってないやつ!」
「え? ……見てませんわ。それが一体?」
紫乃の回答に思わず舌を打つ。
そのまま紫乃を無視して収納を漁る。
「何ですの、急に!」
応えず、鍋やら秤やら麺棒やらといった調理器具をかき回す。
食卓の椅子を引き出し、流しの上の収納を覗き込んだところで……見つけた。
奥の奥、あたしや紫乃の身長では見つけれないようなところ。
市販の料理本の間に挟まった小さな手帖。
手に取り、ぱらぱらとめくる。
この字。
数年前の大福帳に残っている字と同じ。
母さまの字だ。
「ねえ、銀子!」
紫乃が叫ぶ。
その声には、怒りや叱責というよりも、寧ろ、哀切な響きが伴っていた。
頭に上っていた血がすうっと引いていき、冷たくなっていた手足に温かみが流れていく。
「……ごめん。今、母さまのことを思い出してた」
深呼吸をして頭に空気を送り、あたしは椅子から下りた。
椅子を戻し、食卓に着く。
火を落とした紫乃も、あたしの隣の席に腰を下ろした。
紫乃にも見えるよう料理手帖を広げるが、紫乃はそれを見ようとはしない。
調薬方は店の秘伝であるという話を気にしてのことだろう。
「母さまは、古くなった文献から料理手帖にいろいろと書き写してた。お漬け物の漬け方とか、味醂の製法とか……霊薬の調薬方とかね」
「まさか、そんな大事なものを! ……いえ、でも、木を隠すなら森といいますし、料理のレシピに紛れ込ませるのは、よい偽装になるのでしょうか?」
「なるでしょ。調理と調薬には通じるところがある。ぼやかして書けば、他のレシピと霊薬の調薬方の見分けなんてつかないと思う」
一頁、一頁と、存在を確かめるようにめくっていく。
母さまが触れた紙と、母さまが筆で染み込ませた墨とが、確かにここにある。
「母さまが何を話してたか、全部はわからないんだけど、端々は思い出したわ。昔、龍神庵と弁天楼が一つのお店だったっていうのは知ってるわよね」
「もちろん。谷川屋ですわね。谷川屋が江ノ島に看板を出したのがおよそ三百年前。分家したのが二百十年ほど前のことですわね」
「うん。母さま、言ってたわ。『うちも弁天楼も味醂は昔から自家製だけど味は全然違う。元は同じ家だったのに、不思議だね。別々の家になってから、どちらかが作り方を変えたのかな』って」
「味醂のこと、ご存知でしたのね」
頷き、頁を繰る。
「それから続けて、『龍神庵の霊薬といったら朔龍湯だけど、谷川屋だった頃にはもっとすごい霊薬もあった』みたいなことを言ってたわ。その後は、断片しか思い出せないんだけど……『秘密』『ばらばら』『弁天楼にも』。どう思う?」
紫乃が息を呑む。
それからゆっくりと、鍵となる言葉を紡いでいく。
「『もっとすごい霊薬の調薬方は、秘密を守るため、ばらばらに伝承した。弁天楼にも伝わっている』と、そう言いたいのですか?」
「あたしは、そう思う」
「……」
窺うと、紫乃は困ったような表情を浮かべている。
あたしの言い分に納得はしきれないものの、亡くした親に関わることでもあり強く否定するのも憚られる、といったところか。
そんなに気を遣わなくてもいいのに。
あたし自身、未だ確信には至っていない。
全てはこの先の頁にある。
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