06.

「……大黒。これ、大黒」

 静かな虚空から琵琶をはじくような声が生じた。


「弁天か。久しいな」

 上空、辺津宮の空のほうを見上げた大黒さまが応じる。


「久闊を叙するほどの無沙汰でもあるまいに。つい先頃出雲で会うたばかりじゃ」


「去年の神在月であるぞ。近く一歳にもなる」


「そうであったかえ? まあよいわ。そなた、近ごろ腰がいうことをきかぬと嘆いておらなんだか」


「はて。言うたか、言うておらぬか。腰の痛みは我が宿業。常のことであるゆえ覚えておらぬ」


「それはいかん! ときに大黒よ、江ノ島岩屋温泉の効能は存じておろう? 切り傷、火傷、神経痛、そして腰痛じゃ!」

 いつもの気怠げな調子はどこへやら、弁天さまは有無をも言わさぬような早口で言い切った。


「何が言いたい」

 大黒さまは腕を組んだまま硬い声でそうお問いかけになった。


「仕事熱心なそなたのこと、やれ審判じゃ、やれ祭祀じゃいうて、碌に休みもせず諸国駆けずり回っておるのじゃろう。ここいらでちいとばかし骨休めならぬ腰休めと洒落こんではいかがかの?」


「……ふむ」

 大黒さまは顎に手をやったきり、黙りこんでしまわれた。


 それから大黒さまは、小さく縮こまっている金子姉さま、紫乃と数之進に組みつかれているあたし、水溜まりに頭を浸けたままの白金兄さまを順繰りに見渡された。


「稲羽!」


「これに」

 進み出た稲羽が紐で綴じた大きな紙の束を広げると、大黒さまは「うむむ」とそれを覗きこまれた。


 紙の束から顔をお上げになった大黒さまは、しばらくぶりの福々しい笑顔を満面に浮かべておられた。


「三日後の昼に発つ!」


 大黒さまが島中に響くような声で朗々と宣うと、見物客の間からは安堵するような声が漏れた。

 それまでの緊張がふっと途切れたような空気が辺りを覆った。


「これ、数之進! 大黒さまのご逗留だよ!」

 弁天さまに呼びつけられた数之進は、あたしから手を離し、急ぎ大黒さまの許へと駆けつけた。


「それでは大黒さま、岩本院別館、江ノ島岩屋温泉へとご案内つかまつります。饗宴の前に湯をつかわれてはいかがでしょう。その湯上がりに江ノ島の酒と魚とをお召し上がりになれば、旅の疲れも腰の痛みもお忘れになられること請けおいにございます」


「ほっほっほ! 数之進! そちも口が達者になったものよ!」


 腹を抱えて笑う大黒さまに向かって頭を下げる数乃進は、背中でくいくいと手を動かしている。

 指をさして「早く行け」。


 その指示を受け取ったのだろう、紫乃があたしを置いて駆けだした。

 人ごみに飛び込む紫乃。

 その姿が消える。


 おそらく、向かう先は岩本院本館だ。

 今ごろ岩本院では饗宴の仕度を大急ぎで進めているはずだが、その場所を本館から別館の大宴会場に改めなくてはならない。

 更に、大名行列のご逗留ともなれば無数の床が入り用となる。

 こうした歓待計画の変更を一刻も早く伝えなければならない。

 だから紫乃は駆けだした。


 紫乃と数之進がいなくなり、自由の身となったあたしは、金子姉さまの許へと駆けつけた。

 先ほどから金子姉さまは、白金兄さまを見据えながら、両の腕で自分の身を抱いて縮こまっていた。

 

 「姉さま」

 呼びかけると、こちらを見た姉さまは、あたしの身を抱きよせた。


 姉さまは、母鳥が羽で雛を守るように、留袖であたしを抱きとめ視界を覆い隠そうとした。

 だが、あたしは姉さまの留袖をそっと目許から外し、水溜まりに頭を浸けたままの白金兄さまをしっかりと目に焼きつけた。


 そこへ、大黒さまがやって来た。


 数乃進が「大黒さま、こちらへ」と促すのを聞き入れず、大黒さまは金子姉さまとあたしの側に立ち止まり、群衆には届かないような静かな声でおっしゃった。


「龍神庵。面を上げ、己が家族を見よ。命を懸けるなど、早まったことをするでない。頭を冷やし、己を見つめなおすがよい。そして三日後、再び審判を受けるか、そちが自ら決めよ」


「わたしは、受けます」


 頭を下げたまま即答する白金兄さまに、大黒さまはため息をお吐きになった。

 そして、穏やかな声で語りかけられた。


「白金。時は永くそちは若い。五年後にまた挑めばよい」


「……五年後では遅いのです」


 白金兄さまの声には、自らの腹に向けた抜き身の刃を思わせる鋭い響きがあった。


 大黒さまは小さく頭をお振りになった。口にはされなかったが、「もう何も言うまい」とでもおっしゃっているかのようだった。

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