03.

 あたしと紫乃は振り袖に着替えさせられた。

 お婆さまの着付けは目にも留まらぬ早業だった。


 あたしの振り袖も、丈を直してもらうためとお婆さまに預けられていたところであったため、わざわざうちまで取りに戻ることなく済んだ。

 もしかしたら金子姉さまは今日このときのためにと預けていたのかもしれない。


 着替えの後、あたしと紫乃は、中津宮岩屋宮へと急ぎ向かった。

 お婆さまは大黒さまをお迎えする饗宴の仕度のためと、仲見世通りに構える江ノ島一の宿坊、岩本院の本館へ行くという。

 梅鶴おじさまと千里おばさまは別の準備があるからと弁天楼に残った。


 あたしたちの向かった中津宮岩屋宮は、江ノ島神社第三の社殿である。

 島の奥で龍神さまをお祀りしているのが奥津宮龍宮。

 島の入り口で弁天さまをお祀りしているのが辺津宮弁天堂。

 そして島の真ん中にあるのが、かつて天狗さまが空より舞い降りたといわれる中津宮だ。

 今は空座となっており、島の外から神さまがご来訪されたときにはここに座していただくことになっている。

 そして、大黒審判もここ中津宮で行われる。


 中津宮の境内は見物客でごった返していた。

 しかし、社殿の周囲だけはぽっかりと空いている。

 ただ一人、羽織袴をまとった数之進だけが社殿の脇に直立している。


 人も動物であり、気配を感じるものである。

 たとえ目に見える境界線がなくとも、入ってはならないところは分かるのだ。


 境内を囲む社叢は厚い。

 樹々の陰となる隅の方ではまだ先日の雨が乾ききっていなかった。

 しかし、社殿に近寄ることができない人々は、水溜まりに足を踏み入れるのも躊躇わず、少しでも社殿がよく見えるところを得ようと押し合いへし合いしている。


 あたしたちは振り袖という晴れの衣装をまとい、見えない線を越えて歩みを進めた。

 そして社殿の脇に陣取り、大黒さまのご着到をお待ちする。


 笛と太鼓の音が次第に近づいてくる。

 もくもくと湧いた七色の煙の向こうから、行列の先頭が姿を現した。

 もこもこの狩衣をまとった人影が……いや、あれは、人ではない。

 顔は細長く、頭からは長い耳がぴょこんと立っていて……。


「うさぎさんとねずみさんですわ!」


 後ろ足で立ったうさぎたちは、笙やら篳篥やらをぴいひょろ吹き鳴らし、羯鼓や鉦鼓をぽこんちんと打ち鳴らし、琵琶に箏をぽんぽろんとかき鳴らす。

 同じく人間めいた立ち姿のねずみたちは、ちょろちょろと走り回りながら銀紙を織り交ぜた紙吹雪をばら撒き降らせている。

 目を輝かせた紫乃が、小声できゃあきゃあ言いながらあたしの振り袖をぐいぐいと引っ張る。


 歌舞音曲がぴたりと止んだ。

 ついにお出ましである。

 真紅の大傘がささっとたたまれると、その下からきんきらきんのお神輿と、その上におわす神さまのお姿が露わとなった。


 このお方が、大黒さま……。

 赤地に金の刺繍が入った狩衣と白の袴をまとったお体の輪郭は、幽かな光に包まれているかのごとくに漠としている。

 頭を覆う黒の頭巾の下には、にかっと福々しい笑顔を浮かべていらっしゃるが……その笑顔には有無を言わせぬ威厳がある。

 大黒さまがこちらに向き直ると、情けなくも背筋に汗が走った。


 一歩前に出た数兄が、うやうやしく頭を垂れる。

「ご来訪、心よりお待ち申しあげておりました。不肖、弁天楼数之進、此度の饗応役を務めさせていただきます」


「うむ。数之進か。久しく見ぬうちに立派になったものだ」


「畏れ多いことでございます」


「して、そちの脇におるは」


「は。こちらは某が妹、弁天楼紫乃にてございます」

 紫乃が黙ったまま最敬礼をする。


「いまひとりは……」

 数兄があたしの背中を軽く叩いて促した。


「龍神庵銀子と申します」

 あたしは自ら名乗り、深く頭を下げた。


 普段学校などでは沖野や当麻といった名字で通しているけれど、こうして調薬師として名乗りをあげる際には、店の屋号に下の名前をつけて自称するのがしきたりである。

 更にいうならば、人さまに紹介してよいのは身内だけであり、他の店の人間の代わりに名乗るのはその店に対して失礼にあたる。だからこそ、数兄はあたしに自分で名乗りをあげさせた。


 紫乃とあたしを見て、大黒さまは「ほっほっほ!」とふくよかなお腹を抱えてお笑いになった。


「そうかそうか! 紫乃に銀子か! 二人とも見違えたわ! かつての小僧っ子が、いまではいっぱしの娘っ子になりおった」


 と、そのとき.

 大黒さまの後ろに並んでいたうさぎたちがささっと道を開けた。


 参道の向こうより来たるは白金兄さまと梅鶴おじさまである。

 黒羽二重の紋付小袖に羽織、銀鼠色に墨色の縞模様が入った袴と、二人は礼装を身にまとっている。

 そしてその手には霊薬局の証である『蒲の穂鉾』が握られている。


 当代の店主二人の後ろからは、仄かに藍色がかった黒地の五つ紋留袖に白の袋帯と、こちらも礼装をまとった金子姉さまと千里おばさまが顔を伏せながら歩いてくる。

 二人は、金の蒔絵をほどこした漆塗りの黒箱を台に乗せ捧げるように持っている。


「弁天楼、馳せ参じたてまつりましてございます」

「龍神庵、馳せ参じたてまつりましてございます」

 おじさまと兄さまがそれぞれごあいさつ申しあげた。


 当代の店主は、店そのものである。

 弁天楼、龍神庵と、店の屋号がそのまま自称となり呼び名となる。


「うむ。両名とも大儀であった。翔ぶがごとく早き参集、まことに重畳である」

 重々しく頷きなさる大黒さま。


「それでは、早速始めるとしよう! 稲羽!」


「これに」


 大黒さまの背後から一羽のうさぎがささっと進み出て、自分の身長ほどもある大きな木の台を大黒さまの脇に置いた。

 大黒さまのお持ちになっている木槌が真っ直ぐその台に振り下ろされ、硬い音が島に響く。


「大黒審判である!」

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