第二章 蓮華の夕露
01.
あたしの通う江ノ島分校は、島の東側、旧市街にある。
旧市街は土地が平坦で道が広く、小学校など大きな建物が多いし、駐車場やらヨットハーバーやらと広い土地を要する施設もこちらに集中している。
山がちな西側は、狭い坂道が曲がりくねっていて、建物も小さいものばかり。
だが、人が集まるのは島の西側のほう。
名立たる観光地は全て西側にあるからだ。
江ノ島神社も、江ノ島タワーも、一番奥の稚児ヶ淵も西側の山をこえた先にある。
観光客の皆さま相手に商売させてもらっている龍神庵ももちろん島の西側にある。
一方で、島の東側、旧市街に住んでいるのは、主に島の外で働く人々だ。
今帰り道をあたしと一緒に歩いている文枝の家もそう。
父上は本土の藤沢で会社員をしていると聞く。
文枝も習い事のため毎日にように本土へ渡っている。
文枝は江ノ島分校六年の中でも指折りのお転婆である。
あたしと文枝は何故か気が合うので、学校ではよく一緒に遊んでいる。
しかし、普段は帰り道が違うし、あたしは店の仕事、文枝は習い事や塾で放課後も休日も忙しくしているため、学校の外では殆ど一緒にいたことがない。
「銀ちゃんはお遣いなんだっけ」
「そうよ。不本意ながらね」
普段あたしは小学校から急な坂道を登って龍神庵へと帰っているが、今日は島の入り口まで遠回りをしている。
姉さまからお遣いを命じられているからだ。
お遣いは甚だ不本意であるが、おかげで文枝と帰り道を同じくできたと思えば、そこまで悪い話でもなかったといえよう。
「文枝は今日は何? ピアノ? 塾?」
「今日は書道。ピアノやダンスだったら楽しみなんだけどね」
赤と黒の手提げ鞄を示し、憂鬱そうにため息を吐く文枝。
草履を地面で擦らせると、文枝が「やっぱりいいなあ、浴衣」と呟いた。
あたしはいつも和服で学校に通っている。
冬は紬、夏は浴衣である。
特にこだわりがあるわけではない。
この方が楽だからにすぎない。
登校前には店の準備をし、下校したらすぐに店に出る。
いちいち着替えるより一日中和服で通したほうが楽なのだ。
「文枝も着たら? 浴衣ならあるでしょ」
「邪魔だから嫌!」
普段と違う格好はしたい。
でも、学校では暴れたい。
複雑な乙女心である。
参宮橋の袂に辿りついた。
ここが江ノ島の入り口である。
平日昼日中であるというのに、今も人の行き来が絶え間ない。
「じゃあね、また明日」
「はいはい。しっかり書の心を磨いてらっしゃいな」
手を大きく振り、ランドセルと手提げ鞄を揺らしながら、文枝が橋を駆けていく。
あたしは知っている。
実のところ文枝は書道教室を楽しみにしていることを。
同じ書道教室に、腰越の惣吉も通っているからだ。
島から駆け出す文枝の足取りは、先ほどの口ぶりとは裏腹に、跳ねる鞠のように軽快だった。
その後ろ姿を見送る。
文枝と違い、あたしは江ノ島から出ない。
生まれてこの方、島を出たのは数えるほどで、三年前からこちらでは一度たりともない。
参宮橋は歩いても十分そこらで渡れるし、島から藤沢へはバスだって走っている。
しかし、あたしにとって本土は海の向こうよりも遠い。
「おや、お銀! あんた、もういいのかい?」
文枝を見送っていると、後ろから声をかけられた。
今朝、稚児ヶ淵で水をくれた食堂のおばちゃんだ。
「もうばっちり。あのくらいどってことないわ」
袖まくりし、ぐっと力こぶを見せつけてやった。
と、そのとき、店の陰から悪がきどもが飛びだしてきて、あたしを指さした。
「あ、銀子だ! うんこ握ってた銀子だ! うんこー! 銀子ー!」
懐より素早くそろばんを抜き、振りかぶって「おんどりゃあ!」と気合一発。
あたしの放ったそろばんは悪がきどもに向かって真っ直ぐ飛んでいく。
しかし、敵もさるもの引っかくもの。
悪がきどもは蜘蛛の子を散らすようにぱっと散らばり、「ぎゃはは!」と笑いながら逃げていった。
地面で跳ね返ったそろばんを、おばちゃんが拾ってわたしてくれる。
「ありがとう。まったく! あの悪がきどもときたら教育が、ぐへっ」
受け取ろうとしたら脳天にげんこつを落とされた。
「島一番の悪がきが何言ってんだい! 店のガラス割ってたらこんなもんじゃすまなかったよ!」
「誰が悪がきよ!」
「あんたに決まってるじゃないか! 『そろばんの銀子』さんよ!」
「やめてよそれ!」
そう。
あたしには『そろばんの銀子』という通り名がある。
兄さまの『ろくでなしの白金』、姉さまの『夢見の金子』と並ぶ不名誉な通り名である。
通り名の由来は『ケチで金にうるさく商売上手だから』ではない。
それならばよかった。
実際のところは『すぐにそろばんで殴るから』である。
考えるより先に口が出る。
口が出る前にもうそろばんで殴っている。
否定したいのはやまやまであるが、我が身を振り返れば数えきれぬほどの思い当たる節が見つかるため、あたしはこの不名誉な通り名を甘んじて引き受けている。
「まったく。昔っからあんたも成長しないねえ。そろばんで人のこと殴ってはぶっ壊し、投げてはぶっ壊して、そんで泣きながら珠を拾ってねえ。まだこんなちいちゃい頃だったっけ。『買ってもらった!』っていって大喜びでそろばん振り回して、」
「じゃ! あたし、お遣いあるから!」
おばちゃんの昔話が長くなる気配を感じとったあたしは、そそくさとその場を逃げ出した。
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