03.
開いていた口に冷たい海の水が流れこんでくる。
足が地面から離れる。
水が重くて、手も足も動かせない。
音が聞こえない。
塩水で鼻が痛い。
水面は、どっち?
頭の上にも足の下にも、前にも後ろにも、黒い闇しかない。
息が、できない。
目も、もう、開けて、いられない。
そうか。
あたしは、ここで。
兄さま、姉さま、ごめんなさい。
お父さん、お母さん。
薄れる意識のなか、声にならない声でそう呟く。
と、それまで水を切るばかりであった手のひらに、硬いものが触れた。
金属のように硬いのに、温かい。
温かさが広がっていく。
手のひら、腕、肩、胸、お腹、足。
全身に伝わってくる。
その熱に、縋るようにしがみつく。
乱暴な海水に振り回されていた体が、優しくふわりと持ち上げられる。
ぱちぱちと泡の弾ける音が聞こえた。
と、ざぱあんと大きな音がして、急に体が軽くなった。
空気だ。
口と鼻から塩っ辛い水が飛びだし、新鮮な空気が体の中に流れこんでくる。
空気がこんなにおいしいなんて。
慌てて吸い込んだら、思いっきりむせてしまった。
……生きている。
あたしは、生きている。
雨混じりの風が顔を洗うなか、そっと目を開ける。
深い海のような藍色の鱗と、黒光りする背びれが海の上に浮かんでいる。
顔を上げると、その先には二本の大きな銀色の角、ひらひらと舞う長いひげ。
龍神さまだ。
龍神さまが助けてくださったのだ。
波を切り、龍神さまは海の上を飛ぶように滑っていかれる。
遠くに漁船が、と思った次の瞬間にはもうすれ違っている。
背中に跨っていたあたしは、身を寄せ、背びれを掴ませていただいた。
急に雨が強くなった。
大粒の雨が全身を打ちつける。
片手で顔を守りながら空を見ると、頭の上にかかる雲は、つい先程より更に黒く重くなっていた。
突然、龍神さまが頭を空に向けられた。
「……まさか」
咄嗟に、全身で龍神さまのお背なにしがみつく。
ふわりと浮かぶ感覚がして、足を洗っていた波の感触がなくなった。
「ぎゃああああああ!」
海面が見る見るうちに遠ざかり、身を殴りつける風はあれよあれよという間に勢いを増していく。
全身を濡らす雨の中、がらごろごろと音が聞こえた。
空を仰ぐ。
嫌な予感というのは当たるものである。
黒い雲のあちらこちらで青い光が瞬いている。
急に目の前が真っ白になって、ぴしゃ、ばりばり、どん。
「ぎゃああああああ!」
死ぬ。
これは死ぬ。
光って黒焦げになって死ぬ。
助けておいて丸焼けにするとはなんたる仕打ち。
あたしには、龍神さまのお考えがさっぱり分からない。
大混乱のあたしに構わず、龍神さまはお腹いっぱいに雷を溜めこんだ雲に突っ込んでいかれる。
冷たい霧が身体を洗っていく。
ばりばりと破るような、ぴしゃりと打ちつけるような雷の音が四方八方上下左右から聞こえてくる。
霧が体温を奪い、手がかじかむ。
目をつぶり、滑り落ちないように力を込める。
不意に、静かになった。
冷たかった霧の感触が消え、全身に温もりをおぼえた。
目蓋の向こうが明るい。
そっと目を開ける。
「う」
余りの眩しさに、手を掲げ、少しずつ目を開ける。
龍神さまのお頭の向こうから覗くは、これでもかとばかりに光を注ぐお天道さま。
暖かい。
濡れそぼった服と髪の毛があっという間に乾いていく。
振り返り、足の方に目を遣る。
「……うわ」
海と地面の代わりに、真っ白な雲が見渡す限りに広がっていた。
遥か遠くで、雲は水平線のように丸く星の形をなぞっている。
その向こうには、晴れた日の海のような明るく澄みきった青い空があった。
突如、あたしの心中から感謝の念が湧いて出た。
雨の日でも、嵐の日でも、お天道さまはいつもこの星全てを照らしてくれている。
と、龍神さまが急に頭をお下げになった。
「……まさか」
龍神さまはまっすぐ雲の海に突っこんでいった。
「やっぱりいいいい!」
こんな重力の感じ方は生まれて初めてだ。
体が浮かびそうになるなんて。
必死に龍神さまのお背なにしがみつく。
今度は上から雲に突っこむと、辺りが再び暗く冷たくなった。
何だか目がぼやけてきた。
眠りに落ちるような気持ちよさがあって……。
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