02.
「さて、と」
辺りを見渡し、濡れていない場所を探す。
龍の腰かけは学校の教室と同じくらいの広さで、全体的に平坦で歩き易いが、ところどころに穴が開いていたり、逆に盛り上がっていたり、所によっては大きな岩が転がっていたりもする。
岸から離れた岩礁の真ん中に、手頃な岩を見つけた。
波の届かぬ場所であるため湿り気はないし、高さもあたしの腰くらいまで。
そして上面は勾配もなく物を置いても転げ落ちる心配はない。
その岩に背嚢を下ろし、あたしは身体を軽く動かした。準備運動は欠かせない。
怪我をしてはつまらないし、他人様に迷惑をかけてしまう。
腰を回しながら島の方に目を遣る。
海面から隆起した飛び出した巨大な岩が二つ。
海から見たその光景を指して『巨人の食卓』などという呼び名もある。
江ノ島。
相模の国が誇る一大観光地である。
白く泡立つ岩だらけの波打ち際、切り立った崖、食卓を覆う緑の草木、空に向かってそそり立つ江ノ島タワーと、どれもこれもが朝日に照らしだされて眩く輝いている。
準備運動を終え、背嚢から麻袋と軍手、そして潮干狩り用の熊手を取り出す。
さあ、仕事だ。
と、歩き出したところで早速岩の陰にいいものを見つけた。
手のひらにぴたり収まるくらいの青みがかった楕円形の貝がら。
これはエノシマアゲマキの貝殻だ。
直火で炙ってから砕いて粉にすれば『石角散』という胃の薬になる。
その傍らにはアマモが落ちていた。
緑の細長い葉、白い茎、ひげのような根っこと、一瞥には葱に見えなくもない。
アマモは海の中に生えているものである。
恐らく波で打ち上げられたのだろう。
名前だけ見ると藻のようだが、実は立派な種子植物である。
別名をリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシという。
漢字にすると『龍宮の乙姫の元結の切り外し』である。
アマモは、その名の示す通り、茎の部分を擦り潰すと甘い汁が出てくる。
アマモ自体に薬効はないが、薬の苦さを誤魔化すために用いられる。
やはり日頃の行いがよいのか、今日はなかなかについている。
今朝のあたしの仕事は、薬種の採集である。
薬種とは、薬の素材のこと。
江ノ島で三百年看板を守り続けてきた老舗の薬屋、龍神庵。
このあたし、沖野銀子はそこの看板娘である。
薬種採集すらも自らこなす、近所でも評判の働き者だ。
我が家には兄と姉がいる。
二人はともに天下に名を轟かすほどの腕前を持った薬師である。
が、殊商売に関してはからっきしときている。
浮き世離れしていて商売っ気がないし、金勘定にも頓着しない。
このままでは店が潰れる。
小学三年生にして危機感に目覚めたあたしは、首からぶら下げた財布の紐を固く締め、家計簿とそろばんを両手に構え、兄姉と天下万民にこう宣言した。
「一に売り上げ、二に利益、三四がなくて五に薬!」
爾来三年、龍神庵はどうにかこうにか今も看板を掲げている。
とはいえ、店は常に赤字と黒地の境目を行ったり来たりしている。
だからあたしはこうして自ら薬種採集に出張っているわけだ。
言うまでもなく、経費削減のためである。
人に頼むより安上がりなのだ。
もちろん、店で必要な薬種その全てを自分で集めるなんてことは到底できない。
昔からうちに出入りしている薬種問屋さんに調達をお願いしているものも多い。
だが、他所では手に入りにくいものや、特に大事な薬種などは自分で採りに出るのが一番早い。
龍の腰かけを歩き回る。
今日はかなり調子がよいが、期待を上回るだけの結果はまだ得られていない。
エノシマアゲマキの貝殻も、アマモも、その他薬種となる海藻類などは麻袋いっぱいに集まった。
しかし、当たりがない。
当たりは月に一回見つかればよいくらいなので、然程期待していたわけではないが。
それでも、もう少し。
せめて、迎えが来るまでは。
この窪みの奥に、もしかしたら……。
と、額に冷たいものが当たった。
窪みから手を抜き、天を仰いでみると、いつの間にやら空が真っ暗になっていた。
頭の上には真っ黒な分厚い雲がかかっている。
足下ばかり見ていてまるで気がつかなかった。
突如、身体を吹き飛ばすほどの猛烈な風があたしを襲った。
波が大きく跳ね上がり、風に乗ったしぶきが顔にまで飛んでくる。
「……やばい」
どうやら先ほど額に当たったのは雨ではなかったようだ。
波は一回打ち寄せるごとに大きくなっていき、岩肌の濡れる部分が広がっていく。
流石にこれは当たりがどうこう言っていられる状況ではない。
命あっての物種である。
早く岩礁の真ん中へと逃げなければ。
だが、せめて採集したものだけは回収しなくては。
「あれ?」
麻袋を引っ張っても動かない。
中身が重過ぎる、という感触ではない。
腹這いになって見ると、袋の底が岩に引っかかっていた。
そのとき、沖の方からぷおんと些か気の抜けた音が聞こえた。
汽笛の音だ。
音のした方を見ると、いつの間にか漁船たちが戻ってきている。
もう船影はだいぶ大きい。
流石は海の男たちである。
あたしが危機感を覚えるずっと前から、海の変化に気づいていたのだろう。
船が戻って来るまでは島の真ん中で波を避けねば。
と麻袋を引っ張るが、やはりびくともしない。
引っかかっているのを丁寧に外している余裕がない。
もう波はあたしの踝を濡らし始めている。
「きゃ!」
不意に来た大きな波に足をすくわれ、あたしは尻もちをついた。
その波は膝よりも高かった。
さすがにこれはもう無理だ。
諦めて麻袋から手を離す。
とても立っていられない。
風は強いし、大きな波もいつ来るか知れない。
両手を岩に突き、波打ち際から離れようとしたとき、背後からごおおと低くて重い音が聞こえてきた。
振り返ると、すぐそばに灰色の水の壁が迫っていた。
「あ」
声が途切れた。
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