第54話 信濃追分駅

 京都駅を朝の七時台に出る新幹線に乗り、東京経由で軽井沢には十一時頃着き、そこから二駅で信濃追分駅に着く。お陰で四時間ちょっとの旅になった。最初に夕子と彩香が計画したときは、新幹線を使わずに名古屋から中央線で行く予定だったが、これでかなり楽そうだ。東京で北陸新幹線に乗り換えてから四人は、あの騒がしい東京から離れられてやっと落ち着いたようだ。落ち着くと気になるのが何故今回の旅で信濃追分駅が真っ先に浮かんだのかだ。それは山尾には失恋の痛手で心に浮かぶ、どうしょうもない想いの中で、最初に訪れたのが信濃追分駅だった。だが此処では癒やされるどころか益々深くなる心の闇に対峙すると、無意識のうちに一つの極められた表情として長く心の奥深くに留まってしまった。それがこの春に珍しく積もった淡雪に心を駆り出されて、娘の彩香をあてどもなく浮き上がる虚しさからシャッターを押し続けた結果、ある種の閃きが不意に襲ってきたらしい。それがハッキリとした表情として現れたのは夕子を撮った時だった。その背景を替えて撮って欲しいと頼まれた時に、あの駅の寂れた風情が原点として浮かび上がったのだ。

「それってあたしに似合うらしいけれどどんな風景なのかしら」

「誤解のないようにお父さんが捉えたあの表情が合うのであってけして今の夕子そのままの姿じゃないよ」

 と彩香はあの表情は夕子でなく、やり場のなかった昔のお父さんの深層に、渦巻く澱みだと云うのだ。

「そうね、そんな物があの夏の銀座と呼ばれた軽井沢から二駅も近い所に今も在るのなら人の心の移り気って何なのと思いたくなるわね」

 と沙織に言われると、どの口が云うかと、君だけには言われたくなかった。まだ見ぬ君にあの景色をそんな感じで云われれば旅情気分が余り湧かずに壊れてしまう。その内に目に浮かばぬ以上は盛り上がりが欠けると、仮眠を取って喋ることもなくなった。  

 四人が和気藹々と騒ぎ出したのは軽井沢に着いて、新幹線からしなの鉄道に乗り換えてからだ。ローカル鉄道に変わって地元の人が乗ってくると、急に周囲が騒がしくなり、それでみんなベラベラと喋るようになった。そうなると又しても何故あの駅なのかと近付くほど盛り上がる。

「夕子のあの表情にはあの場所が似合ってるそんな雰囲気を醸し出しているんだ」

 としか今の山尾には答えらず、とにかく見てくれと言いたい。

 あの場所は夕子のあの表情の為にある風景だと言いたいほどこの企画を子供達から聞いた瞬間に閃き、恋する旅景色と言う題まで浮かんだほどだ。

「そんなにロマンチックな場所なの」

 子供達はもうそれ処じゃないのに沙織はまだ拘ってる。

「あのホームに立てばそんな感じでしかも有名な詩人が立ち寄った場所だと分かれば益々興味を惹くのは間違いない」

 この人気を持続するためには、次は話題性を盛り込むために雰囲気を変えたいと夕子は望んだ。その場所に近付くともう山尾の持論より、夕子のあの表情に何処まで風景が溶け込めるのか感心は唯その一点に凝縮されてきた。

 会いに来る立原道造を水戸部アサイが待ちきれずに迎えに行った駅だった。それだけに哀愁を帯びた旅情を余計に読者に浮き立たせなければ来た意味がない。

「えらい自信なのね。あたしもあれから勉強したわよ確かに思春期の乙女心を掻き立てられてしかもそこに夕子ちゃんのあの表情があれば受けるわね」

 と沙織は初めて春樹が撮る写真にやっと期待を寄せているようだが、それは山尾の撮り方にも掛かって来る。

「本当に似合っているのか分からないけれど近付いてくると自棄にそわそわしてくるわね」

 とにかく山尾がこの駅に来たのは十五年も昔らしい。そんな昔ならもう面影なんかないじゃんと彩香が騒ぎ出した頃に、列車は信濃追分駅のホームを減速しながら入った。三人は鈍い油圧ブレーキに体を傾けながらも、窓から食い入るように眺めて居る。やがて列車は静止して四人は降りたホームに暫く佇んだ。

 良く見ると古い駅舎に雨風がしのげるように樹脂製の波板が駅舎の周囲に取り付けてあった。表の入り口には派手な色した飲み物の自販機が二台我が物顔で鎮座している。しかし列車から降りたホームは昔のままだ。ブルーの樹脂製の椅子とベンチがなければ昔のままだと山尾が嘆いていた。それでも降りたホームを振り返れば、線路脇にある小さな待合室の小屋は何も変わっていない。

 外へ出たが駅前には何もなかった。本当に田舎のポツンとした一軒家だった。ただ駅前の道路だけは周囲と不釣り合いに立派に舗装されていた。

 ホームに戻ると矢張り此処はあのプラットホームを背景にすればお父さんが撮った夕子のあの表情にピッタリの場所になりそうだ。後は撮り方次第で更に注目を集める写真を撮れば良い。

 そこで山尾は彩香に布を張ったレフ板を持たせて、何もないホームに佇む夕子をそのままに、カメラの角度や高さを変えて撮りまくった。ただ余計な看板や電線と電柱に、線路を跨ぐ陸橋も避けてカメラ位置を工夫して撮っていた。彩香は布製のレフ板を補助光にして、陰影が柔らかくなる位置に当てている。なるほどと沙織は見たことのない春樹の真剣な顔付きに見とれていた。

 山尾は場所を変えて駅舎を背景に撮ってみた。此処も余分な物を画面から外して撮るとかなりいびつな構図になった。これはこれで案外いいかもしれんと山尾がうなずかたわらで沙織が暑い陽射しの中で腕組みをして立っていた。



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