第10話 遠い人

 いつものように定刻にホテルの裏口の通用門から入った。入ると直ぐに守衛室の小さな受付窓口がある。そこから窓を閉めたまま覗き込まれた。外来者でないテナントの写真屋と解ると直ぐ伸ばした背中を戻して回転するスチール椅子に座り直した。山尾は軽く会釈して備え付けのタイムカードに刻印をすると二階の写真室に向かった。従業員用のエレベーターで坂上が気に入っている宴会の冴木澪さえきみおとばったり出会った。今まではなんとも思わなかったが、麻生から聴かされて同じエレベーターに乗り合わせてしまった。そこでじっくり観察できた。矢っ張りこの女は坂上には無理だと直感した。大火傷おおやけどをするのが落ちだから諦めさした方が坂上の為だと思った。扉が開くと彼女が先に乗り二階の写真室のボタンを押すと、振り返りざまに肩に掛かった髪がふわりと舞った。

「いよいよ春のシーズンになりましたね」

 と冴木から声を掛けられた。髪は肩より少し下までありそれで面長に見える。まあ長い方だろう。その分手入れも大変だが、それで清楚に見られるのが彼女の利点だろう。喋り方も愛想よく落ち着いた穏やかな口調に誰からも好感が寄せられた。坂上だけでなく他の男も気になるだろうが、これが曲者でこれ以上踏み込めば毒矢に遣られると知った者は、それ以上は深入りをしない。そうして見ればその瞬間ときに冴木はあの昔の女に似ていると想った。二階で彼女の笑顔に見送られて写真室へ入った。

 広い写場から目立たぬように、カーテルレールで仕切られた狭い入り口に、細長い通路に沿ってテーブルが固定してある。そこが事務兼作業部屋で、回転式のスチール椅子に座り、紅茶を淹れて新聞を見て寛いだ。シーズンオフの冬場はこの狭い長屋式の部屋でなく、広い写場に机と椅子を出していたが今は片付けてある。

 今日は麻生も坂上も休みで独りの留守番だった。山尾はさっきの冴木澪を見て改めて思った。昔の彼女そのままだと。そして女とは恋して初めて知る者だと坂上には言いたいが難しい年頃だろう。相手を思う事で初めて女を知るが、坂上はただ彼女を遠くから羨望の眼差しで幼子のように見詰めているだけだ。だがそれだけで相手はその存在に気付けば第一段は通過して、次にどれだけ気に掛けているかが鍵だろう。此処でそっぽを向かれるか好意を寄せられるか、で次はデートの約束が付けられる。そして確信が持てれば告白すれば良い。それで少なくとも十四、五年前には坂上のように、一人の女性に恋をした山尾は同棲までこじつけられた。

「ごめんください」

 ウッ、と山尾はお客さんかと思った。しかし少なくともベテランのホテル関係者ならカーテンを開けて来るだろう。宴会か事務の女の子なら、開け放たれた写真室のドア越しに躊躇ためらわずにもっとハッキリと言うが、あの喋り方だとお客さんらしい。山尾は狭い事務所から広い写場に出て入り口を見れば、確かにお客さんらしい女性が佇んでいたが、一瞬にして心臓が止まり掛けた。それはあまりにも突然すぎて、そして忽然と現れたことに気を動転させた。

 そこにはほっそりとして遠目には二十代でもおかしくない身体からだつきを保っていた。小首を傾げると矢張り少女のように、肩から落とした髪を後ろに払いのけた。目は矢張りキリリとしているが、それを緩めた頬と唇から零れた白い歯で和らげていた。彼女は昔、此の坂出写真館の新聞求人欄を見て、面接を受けに行くように勧めた石嶺沙織いしみねさおりだ。坂出写真館は丁度このホテルとテナント契約を結んだばかりで人材を求めていた。此の時は坂出写真館は息子の孝幸と、入ってまだ浅い助手の桜木の三人でやっていた。

 流石にあの頃とは変わったが、年相応以上の若さを保っているのは、摂生された安定した生活を続けている証しだろう。

「どうしているの」

 と沙織はあの頃の表情で訊ねられた。

 あの頃の沙織は同じ美大生だった。他の学校では着衣のモデルをやっていて、そこで知り合ったのだ。モデルのときはじっとしていても休憩の時間や終わった時は実にあっけらかんとしていた。彼女は多くの学生から見詰められる中で、殆ど山尾だけは余り彼女を見ないで描いていた。それが気になり休憩時間に部屋を出るときに彼女は山尾の絵をそのつど眺めていた。それが度々あってモデルの最終日に画材を片付けて美大を出るところで、彼女にばったり会った。いや、待ち伏せされたようだ。それから誘い合って仕舞いには、山尾のアパートに泊まり込むようになったのだ。あれから十五年は経っている。

「元気にやってるよ」

 今まで胸中にため込んだ恨みつらみはあの昔のままの出逢った表情に消し飛ばされてしまった。それほど積もり積もった怨みに満ちたときを一瞬にして吹き飛ばす魅力を彼女はまだ秘めていた。だがあの時も一瞬にして近づけがたく引き離す夜叉のような一面も秘めていたのだ。それは正に能舞台に於ける能面の付け替えのような早業の変化だった。

「そう、良かったわね」

 と少しは淋しさを紛らわすような憂いを帯びたが直ぐに頬を緩めた。

「ちょっと気になっていたから寄ったのよ」

 この言葉には思わず『嘘吐け!』 と 胸中から湧き上がったが、途中で立ち止まり「そうか」と直ぐに切り替えられてしまった。この彼女の笑顔でどれだけ慰められて、また同じぐらい騙されたか。勿論悪意がないから、全ては彼女の胸中でピノキオのように操られていたと、云っても過言ではないほどあの頃は彼女に心酔してしまっていた。

 

 

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