第32話 母子
遅くに帰ってきた母親を待ち受けて、真剣な顔で頼んできた。しかも、その声が兄に聞こえないように気を付けながらも、必死な勢いが止まらない。
大野家のダイニングで、母娘がやりとりをしていた。
「お母さん、お願い!」
「でもねぇ」
「お手伝いでも、なんでもちゃんとするから。お兄ちゃんのお世話も今以上に、ちゃんとするから!」
ひたすら頭を下げる未玖だ。
「めったにワガママを言わないあなたの頼みは受け止めたいわよ? それに、今だって家のことを、ちゃ~んとしてくれてるし、お兄ちゃんのお世話は、たぶんこれ以上はやめてあげた方が良いと思うくらいよ。特に、お部屋のお掃除は、なるべく手加減して上げて」
思春期の男の子に気を遣う母親として、時折、兄があまりにも可哀想に思えている。家事を任せっぱなしにしている引け目があるせいで、娘を叱るわけにもいかず、心の中で「お兄ちゃんごめんね」と謝る母である。
「あなたのお願いは聞いて上げたいわ。いくら、ブラック企業でも、二日や三日のお休みくらい取れるから、お母さんとあなただけで行くならまったく問題ないわ。でもねぇ、お兄ちゃんは受験前よ? 一緒に行きたいのはお母さんだって同じだけど、本人が嫌がると思うなぁ」
母親は、困った笑顔を浮かべながら、柔らかな説得を試みている。
「お願いします。1泊で良いの。お兄ちゃんなら私が説得するから」
微苦笑を浮かべてしまう。
『そりゃあ、未玖が言えば、行くと言うだろうけど』
光樹は昔から未玖の頼みに異常に弱いのだ。
母親として申し訳なく思っていた。
『ひょっとしたら、兄の役を押しつけてしまっていたのかしら? 私も反省はしているんだけど、つい、あの子がいい子すぎて、甘えちゃうのよね』
夫も自分も、仕事にかまけて家庭のことを放り出している自覚はある。父親が一年以上もアマゾンの奥地へと行き放しなのはともかく、自分までもが会社に出ずっぱりになっていた。
子ども達に対して決して愛情を持ってないわけではないのだが、この数年は特に「しっかり者の兄と、仲がよすぎる妹」という関係に甘えきってしまっている。
『わかっちゃいるけど、やめられないのよねぇ』
人間は、一度楽を覚えると、なかなか戻れない。
二人でいれば、家の方は何の心配もなく、仕事に専念できた。
『だって、何の心配もないんだもの』
頭の良い兄には安心して家のことをまかせられるだけの安定感がある。妹は兄が好きすぎて暴走することはあっても、基本的な家事全般はなんでもござれだ。
二人がいれば心配ない。
当然ながら思春期の男女だということも一応頭にはあるが、しっかり者の兄は欲望に負けるタイプでもない。もし仮にそうなったとしても、どっちかというと未玖が望んでいる以上、問題ないと思っていた。
マスコミの一端にいるせいか、そのあたりは非常にサバサバしているのだ。
『さいわい、避妊具は渡してあるし』
リビングのしかるべき場所に置いて「定期的に練習すること」と言い渡したのは2年前のこと。それ以来、一目で数が把握できないように、わざと雑多に入れておき、時折補充したり減らしたりしてきた。
こうしておけば「いつ、誰と使っても親バレしないよ」というメッセージを、あの子ならちゃんとわかっているはずだ。
したがって、何の心配もいらなかった。
だが、それが問題でもある。
『すっかりこの子達に甘えちゃってるわよね~ 親失格なのはわかってる。だから、こうして甘えてきた時くらいはぜったいに叶えてあげたいけど、でも、今回は頼んでくる時期が悪過ぎるわ」
未玖の頼みとは「クリスマス前に、1泊で良いから温泉に連れて行ってほしい」というものだった。
旅行に連れて行く。
全然問題ない。温泉でもスキーでも、どこでもいい。
お兄ちゃんと一緒の部屋で。
これも問題ない。今まででも、二人で過ごす晩が当たり前のようにあったのだ。今さら問題ないし、まして自分が連れて行くのだから。光樹には不自由な思いをさせるかもしれないが、そこまで嫌がらないだろうと思える。
母と息子と娘の三人旅に、なんの問題もないだろう。
しかし時期が時期だった。
『いくらなんでも受験前だものね』
お兄ちゃんは頭が良いし、自分でコツコツ頑張っている子だ。県立の一番手の学校を希望してるし、十分に合格する可能性はある。
実際、今も頑張って勉強しているのだろう。
だから、この時期に「2日も旅行で潰せ」というのは気の毒でならない。
『未玖が頼んだら、間違いなく、光樹は行くって言っちゃうものね。あぁ、あの子って、すごい子なのよ、実際』
けっして引け目など感じないように、注意深く育ててきたつもりだったし、二人とも我が子として接してきたつもりだった。
しかし、お兄ちゃんは、いい子すぎた。
『今回の学校のことだって、私には一言も言わなかったわ。きっと私に心配を掛けまいとしたのよね。先生からいっぱい謝られちゃったけど、むしろ、何も知らなくて恥ずかしかったくらいよ』
光樹がイジメに遭っていた。
ちっとも気付かなかったのは母親として恥ずかしい。光樹に、心の底から謝った。しかし「ボクが言わなかったからだもん。お母さんは全然悪くないからね。ビックリさせてごめん」と、むしろ慰められてしまった。
光樹の実の両親は、人類学者であった。
ダムで喪われることが決定したアマゾンの奥地の村へのフィールドワークとして、幼い子どもを親友夫妻に預けて向かい、そこで飛行機事故に遭って亡くなった。日本の数倍の広さを持った密林のどこに墜落したのかもわからず、遺体は十年経っても発見できないでいるほどに広い。
そんな苦しい事態に見舞われた以上、預かっていた親友夫妻の一人息子を、そのまま引き取るのは、とても自然なことでもあった。
年子のような我が子と一緒に、実の兄妹として育ててきたつもりだ。
しかし、我が娘が「兄」を見る目は、どんどん「恋する乙女」になっている。
母親として、娘の気持ちを応援したいような、けれども困ってしまうという、複雑な気持ちがあるのも事実だ。
『二人がお付き合いするのも、なんだったら、結婚してくれちゃっても、ぜーんぜんいいんだけど、問題は光樹が未玖を妹としてしか見ないことなのよね』
それは、我が子として育ててきた親としては嬉しいこと。けれども同じ女として未玖の気持ちが痛いほどにわかってしまうのも事実なのだ。
「お母さん、お願い! ね? おねがい」
娘のおねだりに心を揺さぶられながら『あぁ、また光樹に甘えることになっちゃうのかしら』と申し訳ない気持ちになってしまう母であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
作者より
アマゾンのジャングルの広さは日本の国土面積の18倍以上ですが
飛行機の飛べる範囲で考えると「日本の数倍の広さ」になります。
お母さんは、正月も取材で家に戻れません。農業系の新聞にとって、田舎の年末とお正月を取材するのは必須なんです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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