第64話 触ってもいいんですか、彼女さん
「三月君は隣にいること。絶対に私よりも後ろに立たないで」
「いや、別にいいけど……信頼なさ過ぎないか?」
「だって、そうしないと三月君が後ろから、う、後ろからぁ……はぅ」
「後ろに立たないから現実に戻ってこい、水瀬さん!」
俺達はお昼ご飯を作るための買い物を終え、水瀬の家に戻って来ていた。戻ってきたというのに、水瀬はこうして時折おばさま達が作り上げた妄想の世界に行ってしまいそうになるから、困ったものである。
顔を赤くして目をぐるぐるとさせそうな水瀬を揺らして現実世界に連れ戻すと、水瀬ははっとしたように体をぴくんとさせて戻ってきた。
「ほら、あとはこねて焼くだけだろ? 早くこねてしまおう」
「あれ? 三月君。こねる……あ、そうだね! うん、そうしよう!」
こうして、なんとか現実世界に帰還した水瀬は再びハンバーグを作るために作業に戻った。
すでに材料は切り揃えられて、ボウルの中にまとめられている。あとは、こねて焼くだけなので失敗の恐れはないだろう。
水瀬は俺の言葉を受けると、ボウルの中に手を入れてタネを作るためにこね始めた。
「えっと、これで合ってるのかな?」
「ああ、いい感じだ」
水瀬が手を動かす度にぐちょぐちょとした音が小さく聞こえてくる。水瀬の長い指先がそれに触れて掴むように握られて離されて。水瀬は全体を絡めるように動かしながら、ゆっくりと手のひら全体でそれを掴むように動かしていた。
「んっしょ。なんか変な感触だね。ぐちゅぐちゅになってきた」
「お、おう」
「三月君、私ちゃんとできてるかな?」
「い、いいんじゃないかな?」
「本当に? 私、初めてにしては上手くできてる? もっとこうして欲しいとかあったら、言って欲しいーー三月君?」
「な、なんだよぅ」
「どうしたの? 顔、真っ赤だよ?」
ただ水瀬がハンバーグをこねているだけ。それだというのに、言葉は完全に初めて行為に及ぶ不安げな女の子のそれだった。
なんでそんな言葉選びをするんだよ。狙ってやってるだろ、絶対。
「水瀬さんは根本的にえっち過ぎる」
「え、えっちじゃないもん。え、なんで急にそんな話になったのかな?」
「無自覚ってのが質が悪い」
「だって、私ただハンバーグこねてただけだよ?」
水瀬はまるで自分に非がないように驚いた表情をしていた。いや、驚いているのはこっちだよ、まったく。ただハンバーグをこねるだけなのにえっちな言葉でこちらを動揺させるのはやめて欲しい。
迷探偵の水瀬は俺の言葉と自分の行動を整理しようと、少し上の方を見て考えをまとめていた。それから自分の手元に視線を落として、何かに気づいたように頬を赤くした。
一体、どんな迷推理をしたのだろうな。今度の水瀬さんは。
「もしかして、私がハンバーグをこねる手を見て、えっちなこと考えたの?」
「え、いやー。いやいや、いや」
微妙にかすめるような回答を導き出した水瀬に驚き、俺は必要以上に視線を彷徨わせてしまった。当然、水瀬がそんな俺の態度に気づかないわけがなく、水瀬は微かに顔を赤くしながら、溜息を一つついた。
「三月君。さすがにその思考回路はどうかと思うよ?」
「いや、おっしゃる通りなんだけど、なんか違う気もする」
だって、俺が意識したのは水瀬の指先というよりは無意識のパワーワードなわけで。それでも、突然性的な目で見てしまったことに対する申し訳なさもあった。
「わ、私以外の人をそんな目で見たりしたら、三月君捕まっちゃうよ?」
「ああ、気をつけるようにするよ」
水瀬はハンバーグをこね終えたのか、手を洗いながらそんな言葉を口にした。これからハンバーグを焼くために空気を抜いたりするのに、なんでもう手を洗っているのだろうか。
耳の先を微かに赤くしながら、水瀬はちらりとこちらに横目を向えてきた。そして、濡れた手をタオルで拭き終えると、こちらに手の甲を上にして左手を差し出してきた。
「三月君には色々と世話になってるし、三月君が捕まらないために、仕方なくだからっ」
「えっと、水瀬さん?」
水瀬は顔を赤くしたまま、恥ずかしそうに熱を帯びた瞳を揺らしていた。それから、唇をきゅっと閉じると、言葉を続けた。
「指先とか手がえっちなものじゃないって、分かるためには、これがいいかなって」
「一体、どういうーー」
「えっと、触っていいよ?」
水瀬はこちらに差し出した手をそのまま、遠慮がちな視線でこちらを覗き込んできた。
微かに揺れる不安げな瞳からは、奥手な女の子が勇気を出して行為を誘っているかのような、いじらしさが垣間見えた。
「さ、さわっ?! 見るだけじゃなくてか?!」
「だ、だから、手は別にえっちなものじゃないの。触って慣れたりしたら、変なこと考えなくなるでしょ?」
水瀬はそう言うと、早く触れとでも言うかのようにずいっと左手を差し出してきた。
相変わらず意味不明な理由だが、ここで断るのもなんか悪い気がする。というか、学校で一番可愛い子にこんな事を言われて、何も思わないわけがない。
俺は心拍数を上げたまま、差し出された水瀬の手の甲を指の先でゆっくりと触れた。そして、そのままゆっくりと触れるか触れないかの距離を保ちながら、指先まで移動させていった。
「あっ」
「み、水瀬さん?」
えっちなものじゃないと断言していた水瀬だったが、俺が手に触れて動かすなり小さな嬌声のような声を上げた。
どうやら、驚いたのは俺以上に水瀬だったらしく、自分の上げた声を恥じるように顔を一気に赤くした。羞恥の感情に当てられてしまったせいか、その瞳は先程よりも潤んだ物になっていた。
「~~っ! い、今のはどう考えても三月君が悪い! え、えっちな触り方はだめ!」
「え、えっちだったのか? 今の触り方って」
俺はよく分らない言いがかりをつけられたので、指先をゆっくりとさわさわと触る触り方に変えた。
「~~っ」
……全然変わってないな。
先程と同じように嬌声のような声を上げている水瀬を気遣って、俺は手の甲ではなく、手のひらを触ることにした。
そのまま手をずらしていき、撫でるように手のひらに優しく触れた。すると、水瀬の手のひらが徐々に上を向いていき、こちらに手のひらを見せるような形になった。
「んあっ、ちょっと、三月君、」
そして、そのまま指の間を触ろうとしたところで、指の先が水瀬の指の間に滑り込んでいってしまった。
結果として、見たことのあるような手のつなぎ方になってしまった。
「あ、これって恋人つなぎーー」
「あ、これって上に乗ってするときの手の握り方――」
「「え?」」
そこまで言ったところで、互いにピタッと言葉を止めてしまった。ぱりくりと互いに瞬きをして、互いの言葉をかみ砕いて呑み込む。そこまでして、俺は小さく頷いて言葉を続けた。
「うん、恋人繋ぎだな」
「~~っ!」
そして、そんな俺とは対照的に、水瀬は一気に耳の先の方まで顔を赤くした。突然、強烈な羞恥の感情に当てられたせいか、水瀬の瞳には涙のような物が浮かんでおり、こちらに強く睨むような視線を向けてきていた。
急に思いもしなかった理不尽な辱めを受けて、それを非難するような瞳。そんな瞳で強く睨まれてしまっては、こちらが謝る他なかった。
「えっと……なんかすんません」
「……み、三月君が、私の手をえっちな触り方して、『上でするときの触り方だね』とか言って、指を絡ませてきたって、み、みんなにーー」
「それだと俺急に水瀬さんの手に触れて気持ち悪い事を言ってくる変態みたいな感じがしてしまうので誰にも言わないでくださいお願いします何卒!」
俺はクラスメイトから『フェザータッチの使い手』というあだ名で呼ばれないように、水瀬に頭を下げたのだった。
今回は俺が悪いのだろうか? いや、急に手を好きなふうに触っていいなんて言ってきた水瀬が悪いだろう。まあ、好きなふうにとは言っていないかもしれないが。
じゃあ、誰が一番悪いのかって? 恋人繋ぎを恋人繋ぎと表現しなかった思春期が悪いですよ、うん。
俺は絡ませた水瀬の指の感触を忘れないようにしながら、水瀬に深く深く頭を下げたのだった。
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