第53話 返り討ちですよ、彼女さん

「とにかく、そういう訳だから! 三月君、もう少しこっち寄って」


 俺は水瀬の言葉を受けて、言葉に反するように体を背けようとした。しかし、そんな俺の態度を面白く思わなかったのだろう。水瀬はこちらにジトっとした目を向けた後に体ごとこちらに近づけてきた。


 水瀬の甘い香りと汗の混じり合った匂いが鼻腔をくすぐる。匂いを嗅がれるはずが、水瀬の香りに当てられてこちらがくらくらしそうだった。


「ふふっ、三月君まだ私何もしてないのに緊張してるの?」


「っ!」


 水瀬は内緒話をするかのように、俺の耳元で小声でそんな言葉を口にした。俺の耳が弱いことはすでにバレている。そこにつけ込むように、無自覚のパワーワード。


 声を出さないまでも、俺の動揺はすぐに水瀬にバレたようだった。水瀬の口元はにんまりと笑ったようなものになった。


いつもの俺をからかうような水瀬がそこにいた。


「あ、赤くなった。三月君可愛いんだ」


「か、可愛くなんかないよい」


 自分の体が硬くなるのを感じる。そして、そんな俺の動揺を面白がるように、水瀬は俺の首元に顔を近づけてきた。


「ふふっ。すんすんっ」


「っ! み、水瀬さん」


「あ、また顔赤くなったね?」


 俺が恥じらう様子を見て、水瀬は面白そうに口元を緩めていた。そんな笑みを向けられて、俺の体の奥の方がじんわりと熱くなるのが分かった。


 学校一の可愛い女の子に匂いを嗅がれる。こんな羞恥プレイを俺は知らない。知らないはずなのに、思春期が前のめりになっているのはなぜなのだろうか。


「水瀬さん。お、俺が悪かったので、もうやめていただいてもよろしいでしょうか?」


「やだよ。三月君やめてくれなかったし、それに、」


 水瀬が俺の後ろに視線を向けると、そのタイミングでぐっと人が押し寄せてきたのが分かった。電車が停車して人が流れ込んできたのだ。ちょうど主要な駅に到着したのだろう。俺は腕を突っ張ることしかできないでいた。


「動けないでしょ? えっと、『その更にごめんなんだけど、この状態で動けないから、しばらく我慢して』だっけ?」


「っ!」


「ふふっ、また顔赤くした。でも、やめてあげないよ」


 まさか、俺が人混みで動けなくなることまで計算していたとでも言うのか。そのために、この電車に乗り、この駅に到着するまで時間を待ったのか。


 くそっ、馬鹿みたいなところで頭の良さを見せつけやがって!


俺は完全に水瀬の術中にはまっていた。今さら気がついたとことでどうしようもない。


水瀬は俺が動けないでいるのを確認すると、また俺の首元に顔を近づけてきた。


 水瀬の匂いを嗅ぐ音。そして、それを吐いた時の息遣い。それらがくすぐったいように首元に集中して、何か別の感情が湧き出そうになっていた。


「すんすん。うん、少し汗臭いね?」


「それは、一日経って汗を嗅いだからであって、」


「私のときはえっちな匂いがしたんだっけ? ねぇ、三月君。えっちな匂いってどんな匂いなのかな?」


「~~っ!」


 くすりと笑う表情はどこか妖艶で、俺の中の何かを呼び起こそうとしていた。人ごみで暑いのか、水瀬の頬を伝った汗がやけに艶めかしい。


そんな水瀬を前にして、思春期が新しい扉を無理やりこじ開けようとしていた。


 鍵を持っていないはずなのに、狂ったように力づくでその扉を開けようとしているのだ。やめろ、思春期! その先は地獄だぞ!


「うおっと!」


 しかし、思春期がその扉を開けるよりも前に、俺は現実世界に連れ戻された。次の停車駅に停車した電車は、さらに多くの人を電車の中に呼び込んだのだった。そして、俺はその波に押されてしまっていた。


「あれ? もしかして、想像よりも人が多い?」


 素に戻ったような水瀬がそんな声を漏らしたようだった。そして、俺は押されて先程より水瀬との距離が近くなっていた。


当然近くなれば、水瀬の双丘との距離も近くなる。スタイルの良い水瀬と向かい合うように乗る満員電車。


 これは、回避不可能だろう。少しだけ当たってしまっても、問題はないのではないだろうか。


 そう思ったとことで、思春期がエマージェンシーと叫んでいたことに気がついた。見るまでもない、先程までの水瀬の言動に当てられて、俺の思春期がスーパーサイ〇人2になっていた。


「いや、2はまずいだろ!」


「え、2? 何の話?」


 俺はすんでのとこで腕に力を入れて、なんとか持ちこたえた。水瀬の双丘に少しでも触れてしまったら、3になりかねない。


エネルギー消費が多いから、あの世以外で3の状態になることはできないと作中でも言っていたはずだ! 無理に3になろうとしたら死んでしまうかもしれない。


というか、こんな状態であることを水瀬にバレるわけにはいかない!


「き、緊急事態だ水瀬さん! 少しの間だけ後ろを向いていてくれないか?」


「え? わ、わかった」


 俺の剣幕に驚いたのか、水瀬は俺の指示通りに動いてくれた。よっし、これで水瀬にもたれかかることがあっても、何も問題はない……はずがない。


 水瀬が後ろを向いたことで現れたのは、小ぶりで引き締まっているお尻だった。制服の上から見ているとは言っても、スカートという貧弱な装備しか装着していない水瀬のお尻に、俺のサイヤ人と化した戦闘力に耐えられるわけがなかった。


 というか、ここに押し付けてしまう方が問題だ。まだ向かい合わせの方が良かったかもしれない。


「ぐぬ、おおぉ!」


「ちょっと、三月君大丈夫? そんなに無理しないで大丈夫だよ? 体任せてくれても平気だからね?」


「いや、なんとかせねばならんのだ。あと、体任せるとか言わんといてっ」


 これは俺と世間体との戦いである。こんなとことで力尽きるわけにはいかんのだ。だから、妄想してしまいそうなワードを挟むのはやめて欲しい。力負けを理由に、もたれかかってしまいそうになるから!


 俺が踏ん張りを効かせて、水瀬に触れないようにと奮闘する中、反対側のホームのドアの向こう側から熱い視線を向けられていたことに気がついた。


 俺と世間体との戦闘に魅入っているのか。そう思ってそちらに視線を向けると、おさげ姿の眼鏡を掛けた女子がこちらに熱視線を向けていた。


 顔を赤らめながら本で顔を隠して、こちらをじっと見ている。


 その視線は何かえっちな現場に遭遇してしまったようで、離すに離せなくなった視線をそのままに、夢中になっているようだった。


「あ」


 そこで俺は気がついてしまった。


 この構図を前から見たらどう見えるのかを。


 ドアに両手をついている水瀬。その表情は先程までの俺のやり取りもあって、妙に色っぽいものへと変わっていた。暑さのせいで熱っぽく頬を赤くもしている。


 そして、その上に覆いかぶさるように俺がいる。水瀬と同じようにドアに手をつきながらも、足にも踏ん張りを入れているため、どこか力んだ表情をしているはずだ。水瀬に押し付けてしまわないように離した腰は不自然な位置にある。そして、俺は先程の水瀬とのやり取りのせいで余裕がない顔をしていることだろう。


 ……いや、入ってはいないですよ。


 そうは言っても相手も思春期である。そんな勘違いをしても可笑しくないだろう。試しに腰の位置を少しだけ前にずらしてみると、こちらに視線を向けている少女は顔を真っ赤にして、持っていた本を落としてしまっていた。


 ……君の思春期も中々のものだな。


「水瀬さん。絶対に、向かいのホームにいる女の子を見るなよ。フリじゃないからな」


「え? あの子? なんだろう、なんか顔を赤くしてこっちを見てるみたいだけど」


「水瀬さん、今こっち向かれると色々ヤバいから、何も言わないで目でもつぶっていてくれ」


「やばい? えっと、何がかな?」


後ろを向いた状態でこちらに顔だけを向けると、いよいよそういうものにしか見えなくなる。


 いや、そう思ってしまう俺が可笑しいのかもしれないが。あと、俺の思春期も大概にして欲しいものである。


「満員電車、ドアに手を付く私、後ろから力んだ様子で手をドアに置く三月君、」


迷探偵の水瀬はポツポツと言葉を漏らして、現状を把握しようとしていた。


でも、何も問題はないはずだ。だって、こっちから今の俺達の様子を確認しないと分からないはずだから。それか、何か鏡張りでもない限りな。


俺が水瀬にバレないことを確信して息を漏らした瞬間、電車は地下に入ったようだった。


当然、辺りが暗くなれば自分達の様子が鏡のように映るわけで。


俺達の今の構図と先程の水瀬の言葉。そして、先程の顔を赤くしていた女の子のことを思い出したのだろう。


「~~っ!」


 水瀬は何かに気づいたように顔を一気に赤くした。ドアに反射して見える水瀬の顔は羞恥の色で真っ赤に染まり、目元には涙のような物を浮かべていた。羞恥心が限界突破してしまったのか、恥じらうように微かに脚をきゅっと閉じたのが分かった。


「その更にごめんなんだけど、この状態で動けないから、しばらく我慢して。多分、あと三駅分くらい」


「~~~~っ!」


 振り返って俺を睨むその目は、完全に電車の中で彼氏に悪戯される彼女の図だった。無理やりされて恥ずかしいけど逆らえない。そんなふうに恥じらいを耐えるように、口を強く閉じていた。


 いや、今そんな顔されると、ますます勘違いされてしまうだろうに。


 それから停車駅で電車が止まる度、水瀬の顔は恥じらうように赤さを増していった。


 いや、だからそんな顔をされると見ている方も余計にですねーー。


 

 そうして、俺達はようやく電車を降りることができた。もはや、こうして電車を降りることにも既視感を覚えてしまう。


 恐る恐る水瀬の方に振り返ってみると、水瀬は顔を真っ赤にしてぷるぷると震えていた。潤んだ瞳で睨まれてしまい、俺は今朝ぶりの言葉を水瀬に送ることにした。


「えっと……なんかすんません」


「……み、三月君に、満員電車の中で後ろから無理やりされて、私を辱める様子を向かいのホームの人に見せつけて、見せつけて興奮してたって、み、みんなにーー」


「それだと俺痴漢と露出狂のサラブレッドみたいな感じがしてしまうのでみんなに相談をすることだけは控えていただいてもよろしいでしょうかお願いします何卒!」


 俺はクラスメイトから『ハッシュタグ 見せつけ』と呼ばれないように、水瀬に頭を下げたのだった。


 今回は俺が悪いのだろうか? いや、今回は勝手に妄想を繰り広げた水瀬が悪いんじゃないだろうか。俺の匂いを嗅ぐことばっか考えているようなえっちな子だしな。


 あとは、駅のホームにいた思春期を拗らせていた少女が悪い。なぁ、思春期よ。


 俺は水瀬の息遣いに当たられてしまった首に残る感触を忘れないようにしながら、水瀬に深く深く頭を下げたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る