第20話 一歩踏み出す、彼女さん
「さて、水瀬さん。これからが問題だ」
「問題?」
俺は水瀬さんの顔の赤みと、お昼ご飯を食べ終わるのを待って話を始めた。
「今の状況、どう思う?」
水瀬は俺の言葉に首を傾げていたが、やがて何かを考えるように腕を組んで考える素振りをみせた。
「誰もいない空き教室。私達がここにいることを誰も知らない。制服姿に欲情する三月君……え、ちょ、ちょっと、三月君まさか!」
水瀬は状況の整理の途中で、良からぬ要素までも取り入れようとしたらしい。水瀬は俺から距離を取ることはなかったが、恥じらうように胸元を手で覆い隠した。
水瀬は収まったはずの顔の赤みを再発させ、羞恥の色で染まった瞳をこちらに向けてきた。
スタイルの良い水瀬にそんな顔でそんな行動を取られると、男の子として思ってしまう所がないわけではない。それでも、こんな状況でそんな雰囲気を匂わせてしまえば、俺はいよいよ変態である。
「しない!しないから! それと、欲情まではしていないから! 何もしないから胸元を隠そうとするな」
「よ、欲情の手前くらいまではしたんだ」
「……」
「だ、黙るのはずるいと思うな!」
下手に口に出しても事故るような気がしたので、黙り込んでみたのだがどうやらそれも悪手だったらしい。
そうは言っても、否定するのもなんか違う気がしたし。
俺は小さくため息を一つ吐いて、水瀬との会話に間を取った。そのかいあってか、目の前の水瀬も微かに落ち着きを取り戻したような気がした。
「どれだけ俺を変態に仕立て上げたいんだ。どっちが変態か分からんぞ、本当に」
「わ、私はえっちじゃないもん。三月君がえっちなんだもん」
自分は悪くないと言いたげな水瀬の言葉と不満そうな視線を無視して、俺は言葉を続けた。
「とにかく、今の状況は水瀬さんが俺をお昼ご飯に誘って、しばらく帰ってこないっていう状況だ」
「もうすぐお昼休みおわっちゃうもんね」
「ああ。そうすると、教室に入った瞬間、俺達は注目の的になる」
「うん。色々聞かれちゃうかもね」
普段、水瀬はクラスカースト最上位のグループでお昼を食べている。これまで、幾度となく他のクラスや学年から水瀬をお昼に誘いに来た連中は、そのグループとお昼を食べるからと言われて、断られているのだ。
それが急にクラスのよく分らんモブとお昼を食べてきたというのだ。それも、水瀬からそのモブを誘ったと来た。
今頃、クラスではその話題で盛り上がっていることだろう。
「もしかして、何か作戦でもあるのか?」
どこか言葉に余裕を感じる水瀬の口調。まるで、こうなることまでも見越していたかのような、そんな口ぶりだった。
「作戦なんてないよ。ただ、みんなには三月君とご飯食べたかったって言うつもり、かな」
「いや、その理由を深く聞かれるんだろ?」
「うん。『どんな人か気になって、話してみたいって思った』って答える」
「そんなこと言ったら、勘違いされるぞ。というか、勘違いするなという方が無理だな」
この年頃の女の子が異性を気になったと言えば、それは恋愛的な意味にしか思われない。ただ人として話したいと思ったなんて言葉が通じるのは、社会人になってからだろう。
学生生活というのは、結構な割合が色恋沙汰で占められているものなのだ。まぁ、俺みたいにそんな割合が皆無な奴もいるのだが。
「いいよ、勘違いされても」
「え?」
水瀬は微かに照れながら、あっさりとした口調でそんなことを口にした。
いつものように顔を真っ赤にするわけでもなく、ほんのりと頬を朱色に染める程度。
俺自身が勘違いしそうになる言葉だったが、今の水瀬の表情を見るとそんな意味で言った訳ではないことが分かった。
水瀬の真剣な瞳は俺を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「今回のことで少しわかったの。三月君と話す時間が欲しいなら、学校で話す時間を作ればいいんだって。だから、話せる時間が増えるなら、勘違いされてもいいかなって」
「いや、でも、あれだ。家事のこととか色々バレたりする恐れだってあるぞ?」
元々、水瀬は学校でも俺に話しかけようとしてくれていた。ただ、俺がその行動を注意したのだ。
接点がない俺達が仲良くなった理由は、俺が水瀬の家事を手伝ったことにある。だから、俺達が学校で話すなら、そのことを説明する必要があり、水瀬には一人暮らしをするスキルがないとがバレてしまう。
そうなれば、当然七瀬にその情報が伝わって、水瀬は一人暮らしを続けることができなくなる。
それを避けるために、学校で話すことをやめたのだ。
「大丈夫、家事のことは話さないよ。伝えるのは、私が三月君のことを気になったってことだけ。話したい人と話せないのは嫌だし、私も少しは変わっていかないとね」
水瀬はそう言うと、どこか大人っぽい笑みを浮かべた。
いつものアホみたいな言動を取る水瀬でもなく、クラスで求められる自分を演じる水瀬でもない。自分を変えようとして、少しだけ大人びた水瀬の姿だった。
水瀬は一人暮らしをして、自分を変えたいと言っていた。自分の環境を変えて、優等生の自分を演じなくていい学園生活を送りたいと。
今の水瀬がしようとしている行動は、そんなみんなが憧れる水瀬さんから少しだけずれた行動だ。みんなからの期待に応えるのなら、俺みたいなモブと一緒にお昼ご飯を食べてはならない。
ずっと人に期待された自分を演じてまっていた水瀬が、自ら一歩だけ自分の意思で行動をしようとしていた。
俺にはその姿が少しだけ眩しく見えた。
「あ、でも、それだと三月君に迷惑かかっちゃうか」
「迷惑だなんて思わないよ」
「え?」
そんな自分を変えようとする水瀬の有志を見せられて、何も思わない訳がない。
変わろうとする水瀬の側にいたい、支えていきたいとか思っていた男がこんな所で怯むわけがないのだから。
「普通に考えてみろって、俺ってただのモブだぞ。それなのに、学校で一番可愛い女の子の気になってる相手として噂されるんだ。そんなの嫌がる男子がいるわけないね」
おそらく、俺はクラスで注目を集めることになるだろう。そして、それは多分嫉妬ややっかみといった良くない感情だと思う。
それでも、そんな感情を向けられてでも、今の水瀬を支えてやりたいと思った。
「モブを表舞台にあげるんだ。それなりの覚悟はできてるんだよな?」
がらにもなく自分に酔うように、俺はそんなふうに言葉を続けた。悪だくみをするようにして上げた口角は俺に似合っていなかったのだろう。
水瀬は呆れるようで安心したような笑みを浮かべていた。
「……うん」
嬉しそうにそう頷く水瀬の目には、微かに涙のような物が見えていた。
「よっし、行くか」
「うん」
そして、俺達は自分の教室の前に立っていた。
自分の教室の前なのに、これほど緊張をすることがあるのか。俺は初めてこの教室に入ったとき以上の緊張を味わっていた。
この扉を開けた瞬間、俺達に注目が注がれて教室の喧騒がぴたりとやむのだろう。
そう思うと、やはり怖いものがあった。覚悟を決めても、怖くないと言われれば嘘になる。
しかし、それは隣にいる水瀬も同じだった。
不安げな表情は見ているこちらが心配になるくらい青く、唇の色もいつになく血色が良くない。
今まで変えようとしてできなかった自分を変える一歩。その一歩目を踏み出す恐怖は、今の俺が感じている緊張感を大きく上回るものだろう。
元気づけてやろう。そんな気持ちではなかったと思う。ただ、今にも震えだしそうな水瀬の手に触れることで、気を紛らわせてやりたかったんだと思う。
気がつくと、俺はそんな水瀬の手に自身の手を伸ばしてーー
「大変だ、大変だぁぁ!」
「え、時光?」
突然廊下から走ってきた時光は、俺達のことなどお構いなしといった様子で慌てふためいていた。
俺は突然の時光の登場に、伸ばしかけた手をばっと引いていた。
時光は俺達の間に割って入ると、強く教室の扉を開けた。
「大変だぁぁ! 英語教師の大野先生の透けたブラジャーが今日は黒だったぞ!!」
英語教師の大野先生。新卒で今年本校に入ったばかりの教師で、教師らしからぬ色気を出していると男子生徒達からの人気が高い先生だ。
そんな先生のブラジャーが黒だった。そんなことを必死の形相で語っているこいつは、ただの馬鹿なのであった。
しんと静まり返る教室の喧騒。教室にいたクラスメイトは男女問わず時光の方を見ていた。
視線を一身に受けた時光は、怯むどころかむしろ負けじと声のボリュームを上げたようだった。
「本当なんだ! 今ならまだ間に合うぞ! 昇降口だ! 男子どもは俺に続けぇ!!」
別に誰も疑ってはいないぞ、とツッコミを入れたくなるような馬鹿なこと言って、時光は再び教室から出ていった。
時光の発言を受けてクラスの男子達はやれやれと言った表情や、何馬鹿なこと言ってんだと余裕のある反応をしていた。しかし、そう言いながらも、クラスの男子達は徐々に廊下側に集まっていき、時光の後を追うように教室を出ていった。
残った女子達はそんな男子に対して冷たい視線を送っていた。時光の後に続きたいのに、続けない男子達はもんもんとその場に残っていた。そうして、クラスはまたいつもの喧騒を取り戻し、開けっぱなしになっている扉から俺達が入っても、注目を集めることはなかった。
まったく、時光って奴は。
俺は時光の行動に呆れたような笑みを浮かべていた。
俺達が悩んだ先にあった答え。あれだけ考えたのに、もしかしたら少し悩み過ぎていたのかもしれない。
英語教師の透けブラに話題を持っていかれるほどのものだったのだと、俺は時光に教えてもらったみたいだった。
きっと、水瀬も俺と同じように気持ちが軽くなっただろう。
「三月君? どこ行くの?」
俺は無意識のうちに時光たちに続こうといたようで、教室から飛び出そうとしていた。そして、そんな俺を呼び止める声があった。
いつになく冷たい声を掛けられ振り返ってみると、いつになくジトっとした目をこちらに向けている水瀬がいた。
それは、クラスの女子達が他の男子達に向けているものよりも数段冷たくなったものだった。
「ちがうんだ、本能的に、その、なんというか」
「ふーん。三月君って、本能的に先生の透けたブラジャーを見に行くんだ」
「……なんかすんません」
そうやって言葉で言われてしまうと、何も言い返せなくなってしまう。だって、男の子だもん。
水瀬はそんな俺の返答が面白くなかったのか、つまらなそうにこちらから視線を外した。そして、不貞腐れるように頬を膨らませていた。
「……三月君が、誰もいない教室で『胸元を隠すな、覚悟はできてるんだろうな?』って言ってきたって、みんなにーー」
「マスコミもびっくりな言葉の切り貼りはやめましょうよそれだと俺脅すタイプの変態みたいだし冤罪で退学になる未来しか見えないからやめていただけませんかお願いします何卒!」
俺はなぜか機嫌が斜めになった水瀬に深く頭を下げていた。
そりゃあ、これから自分を変えるために一歩踏み出すんだって雰囲気だったのに、『透けブラだ、わーい!』って相方がどこかに行こうとすれば、機嫌も悪くなるよな。
今回は俺が悪いのだろうか? いや、主に思春期と時光が悪い気がする。
でも、時光は教室の空気と話題をがらりと変えてくれたわけで……やっぱり、俺が悪いか。
俺は水瀬の機嫌が少しでも早く良くなるよう、誠心誠意頭を下げたのだった。
その際中、水瀬が自身の手を必要以上に気にしているように見えたのは気のせいだろうか。
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