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 東雲はもう何年もこの店で働いているかのように手慣れた様子で料理を運び、注文を聞き、食器を下げる。客の誰も東雲が刑事だと信じる者はいないというほどの働きぶりだった。

 ふたりがカウンターとテーブル席との往復を繰り返していると徐々に客足が減っていき、とうとうテーブル席に空きが出た。

 東雲が空いた皿を持ってカウンターに戻ると、東雲の席に新しく作られたカクテルが置かれていた。カウンターの中で先程よりも落ち着きを取り戻した様子のマスターがニヤリと笑っている。

「ご苦労さま」

「僕のお役は御免ということかな?」

「もう外に待機しているお客様もいない。あとは恵吾の仕事だ」

「では、マスターのお言葉に甘えるとしよう」

 東雲は椅子の背に掛けていたジャケットを隣の椅子へ移し、カクテルの目の前へ座った。職業柄体力勝負には慣れているが久しぶりの接客業であったため、いつも伸びている背筋が過剰に伸びている気がした。カクテルは一杯目と同じくジントニックだ。労働の対価としてはささやかかもしれない。しかしそれを口に含むと幸福感が全身へ広がった。

「美味しいなあ……僕が作ってもこうはならない」

「そりゃそうだ。年季が違うんだよ、若造」

「……僕のことを腫れ物じゃなくて若造扱いしてくれるのは、マスターくらいだよ」

「――疲れているのか、祥貴」

 口から漏れてしまったちょっとした本音に、東雲自身驚いていた。グラス越しにマスターが気遣わしげな顔をしていることに気づく。その強面には似つかわしくない、しかしマスターだからこそできる表情だ。

「――たまにはこういう日もあるのさ」

「働かせすぎちまったか?」

「この程度の労働で音はあげないよ――楽しくて、だからこそ感傷的なだけだよ」

「恵吾に聞かれるなよ、面倒だぞ」

「ふふ……そうだね、気をつけよう」

 和気藹々と接客をする千葉の柔らかな横顔を見て、ありもしない今を夢想する――自分を年相応に扱ってくれるマスターの下で弟のように感じている千葉と共に様々な客と出会う。それはとても楽しいことだろう。しかし、果たすべき使命を胸に刑事の職を拝命した。だから東雲にとってその夢想はあり得ない今なのだ。


 千葉はカルトンの電子機構に客のデバイスを認証させると、会計を終了させる。店の扉まで客を誘導し無事に外まで出たのを見届けるとカウンターに真っ直ぐ戻り、東雲の隣の椅子へ腰を下ろした。たった今見送った客が、東雲以外で最後の客だった。

 席に座るや否や、ベストの内ポケットから電子タバコとカートリッジを取り出し、それらを手早くセッティングする。喫煙可能のランプが本体に点ると、フィルター部分を口に咥えて目を伏せる。長い睫毛の影が千葉の頬に落ちた。千葉は溜め息をつくように煙を吐き出すと、気怠げな微笑みで頬杖をついた。流石の長時間労働に疲れているらしい。東雲は自然と労いの言葉を千葉へ向ける。

「お疲れ様」

「ほんまにお疲れさんやわ。それに手伝ってくれてありがとう――なんやこれ、ホットミルク……?」

 千葉はようやく目の前に置かれた真っ白なカップに気づき、中身を覗き込む。湯気の立ち上る乳白色の液体は東雲が千葉のために注文したものだった。

「甘いものが良いかと思って。砂糖多めに作ってもらったよ」

「てっきりお酒の相手するんかと思ってたわ……けど、おおきに」

 カウンター上部に設置されたスピーカーからはしっとりとしたジャズが流れ、いかにも落ち着いたバーの雰囲気を演出していた。相手が相手ならこのままどこかへ誘い出すこともできそうなほどムーディーだ。しかし東雲の隣にいるのは疲れた顔でホットミルクに舌鼓を打つ男。ホットミルクをじっくり楽しんでいる千葉の横顔はあどけなさを感じさせるもので、普段なら抱くだろう邪な考えなどは霧散してしまう。

 もはや昼間の勝負の続きという空気でもなく、東雲もゆったりとグラスを傾けながら千葉の横顔を見守っていた。

「君は案外働き者だね」

「案外ってことはないやろ。俺、めっちゃ働き者やで。そういう祥ちゃんもこんな休みの日までわざわざご苦労様って思うわ――朝は射撃訓練で夜は市民のお手伝い……公僕の鑑やな」

 ホットミルクを一旦置いて、再び電子タバコを咥えた千葉は口角を吊り上げて意地の悪い顔で笑う。千葉の言葉は挑発的なものだ。しかし意地悪な表情の瞳には柔らかな光が宿っている。千葉の甘さがその光に現れており、その光のおかげで千葉の発言は不快なものに成り下がらない。

 ――それがこの男の可愛らしいところだ。

 東雲はそっと目を細めて頬を綻ばせると、誰もが見惚れるだろう微笑みを千葉へ返す。

「いまどき公僕だなんて言葉を使う人間がいるとはね」

「どいつもこいつも汚職に塗れて、公のために尽くすなんて考えの人間の方が少ないもんな?」

「みんながみんな、そうじゃないさ」

「例えば――祥ちゃんとか?」

 意地の悪い表情はそのままに煙を吐き出す千葉。その表情はこの社会を皮肉っているのか、それともそんな場所に身を置き続けている東雲を皮肉っているのか。もしくはその両方だろう。東雲はグラスに残る最後の一滴を飲み込み、千葉と同様にタバコを吸おうと隣の椅子へ掛けていたジャケットのポケットに手を突っ込んだ。

「……素直に褒めてくれるのはありがたいね」

「いつでも素直やからな、俺は」

「確かにそうだ――」

『事件発生、緊急配備を発令する。指令番号――』

 東雲の指先が愛用の煙管に触れた瞬間、完全指向性の音声が耳に届く。その音声は東雲の左手首に巻かれたデバイスから発せられており、警察署員の現場への急行を命じるものだった。

 不自然にピタリと動きを止めた東雲を見て、千葉はぎゅっと眉根を寄せる。東雲が煙管を取るために向けた背中を千葉は拳を軽く握って小突いた。

「もしかして緊急出動?」

「そのようだね……」

「今日は祥ちゃん休みなんやろ? 出ていく必要ある?」

「必要はあるね。この辺りで強盗が発生したみたいだが……予測される逃走ルート上には僕と派出所の警察官がひとりだけしかいないらしい」

 煙管をポケットから取り出さず、東雲はジャケットを持ち上げると袖を通した。上質な誂えのスーツは東雲が着込んでしまえば先程まで寄っていたシワがひとつも見当たらなくなった。東雲が「また連絡するよ」と急ぎ足で店の扉まで向かおうとするが、肩を掴まれて阻まれる。肩を掴んでいるのは言うまでもなく千葉の手だった。その男は大柄で力もある。無理やり突き進むことは余計な怪我の原因になりそうで困った東雲はその眉目秀麗な顔を歪めた。

「すまないが、遊びはまた今度……」

「なあ、俺にも手伝わせてや」

 疲れた表情はどこへやら、千葉の目は悪い企みに爛々と輝いているように見えて、東雲はどこまで千葉の話を受け入れたものか判断し難かった。

 しかし、迷っている時間もない。こうしている間にも、手首の無線は強盗犯が街頭カメラやセンサーを掻い潜って逃亡を謀っているだろうと予想できるアナウンスを繰り返していた。見失う前に身柄を確保しなければならない。

 東雲は軽く頷くものの、渋々という様子でわざとらしく溜息をつく。そして千葉の丸く見開かれた楽しげな瞳を覗き込んだ。

「――君がいるなら心強いね」

「よしきた! ほな祥ちゃん、急ぐで」

 千葉が『CLOSE』と書かれた札を扉に吊り下げると、ふたりは夜の街へ駆け出していった。

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